第14話 パパに恩返しさせてや
最初に聞いたとき、なんやこのオッサンの声、あの人にめっちゃ似てるやん。
でも、陽咲の心の中ではハッキリしとる。ただ似とるだけ、絶対にあの人ではない。
「こんにちは」陽咲はニコッと微笑む。
「今日、息子が無事に帰ってこられたんは、本当にあなたのおかげです。心から感謝いたします」
男はしっかりとお礼を伝えてきた。
陽咲は軽く笑って、「いえいえ、別に大したことはしていませんよ。そんなに気にしないで」
「お姉ちゃん!パパがちゃんとお礼するからな!」
小さな声が電話越しに元気よく飛び込んできた。
陽咲は思わずクスクス笑った。
そしたらまた、あの低い声が響く。
「私の番号、しっかりと保存しておいてくださいね。今後、何か困ったことがあれば、いつでもご連絡いただいても構いません」
陽咲はちょっと考えた。ここまで感謝されてるんやし、とりあえず口だけでも受けとくのが礼儀か。
「…じゃあ、一応登録しておきますね」
「お姉ちゃん!困ったら絶対パパに連絡するんやで!どんなピンチでも、パパがバッチリ解決したるから!」
うん、ほんまに悠晴にとってパパってのはヒーローやな。
「そっか。…でも、もう遅い時間やで?そろそろ寝なあかんのちゃう?」陽咲は時計を見て、もうすぐ夜の10時やと気づいた。
「それでは、また今度ですね。今日は息子を寝かしつけます」男の声が落ち着いた感じで伝わる。
「お姉ちゃんも、ちゃんと寝るんやで!」
「うん。ほな、おやすみ」陽咲は微笑んで、電話を切った。
ふぅ……。
なんで見ず知らずの人の優しさの方が、あの家の温もりよりもずっと温かいんやろう?
……
主寝室
凌介はスマホを手にじっと考えとった。
さっき電話越しに聞こえたあの声、なんでか、ある人の顔がチラつく。
けどな、そんなわけない。
ただ声が似とるだけや。
…だって、あの女はもうこの街にはおらんのやから。
「パパ!絶対ちゃんとお姉ちゃんにお礼するんやで!」
「わかってる」凌介は息子に良い見本を見せようと思っていた。
受けた恩は、ちゃんと返すんが筋や。
この子が生まれてから、凌介の世界は180度ひっくり返った。
仕事以外の時間は、ほぼ息子のために消えとる。
「なぁ、パパ。僕、このお姉ちゃん、めっちゃ好き!パパ、追いかけてお嫁さんにしてや?そしたら、お姉ちゃんが僕のママになってくれるやん!」
ズバッと息子の本音が飛び出してきた。
……凌介は一瞬、固まった。
今まで息子は、女の人が近づくのをめっちゃ嫌がってたのに、まさか自分から女を追えって言うなんて?
まあ、あの人も母親やって聞いとるし、そんなことはありえへんけどな。
それに、今は女のこと考えてる暇なんてないし、息子のことで頭がいっぱいや。
恩返し言うても、物で十分やろ。
凌介は息子の頭をポンポンと撫でながら、苦笑いする。
「お前、いつもパパの周りに女がいるの嫌がってたやろ?」
「でも、お姉ちゃんは別や!」息子は不思議そうに首を傾げた。
なんやろなぁ…?
お姉ちゃん、夢に出てくるママとよう似てるねん…。
凌介は息子をひょいっと抱き上げて、頭にチュッと軽くキスをする。
「ほな、ちょっとアニメでも見てから寝るか」
「やったー!パパ大好き!」
息子はニッコニコで首にギュッとしがみつき、ほっぺたにチュッとキスしてきた。
この「大好き」って言葉を聞くたびに、心の奥で何かがグッと引っかかるような感じがする。
彼の心には、一生消えない謝罪の気持ちが残ってる。
息子は一生知らないままだ。
生まれた時、何があったのか。
生まれる前、どれだけ拒まれ、どれだけ憎まれていたのか。
もうすぐ産まれるって時でさえ、あんな鬼畜みたいなことをされて、危うくこの世に出ることすら許されないところだった。
だからこそ、今――
彼は誓う。
悠晴を倍に愛して、過去の罪を償う。
陽咲はマンションに戻ると、ソファに身を沈めた。
スマホを取り出し、電話帳を開く。
…さて、なんて登録するかな。
しばらく考えた末に、彼女は「萌えのパパ」と打ち込んだ。
……
宮園家。
貴子は今夜、眠れそうになかった。
陽咲はもはや自分の会社の敵。
洛蘭グループは国内市場に参入したばかり。そこに陽咲が加われば、ましてやまた何か爆発的な作品でも生み出されたら…。
国内の香水市場は、確実に洛蘭に食われる。
「…チッ」
貴子の目がギラつく。
陽咲、あの女、潰さないと。
普通に働くことも、生きることもできないようにしてやる。
いや、精神的に壊れるくらいじゃないと、気が済まない。
別に、手を汚すのは初めてじゃない。
5年前も、もう少しで終わらせられるはずだった。
なのに――
あの夜、陽咲は何のツキか知らないが、寸前で逃げ延びた。
こっちが送り込んだ奴はボコボコにされて病院送り、陽咲は誰かに助けられた。
まあでも、すぐに手を打ったけどね。
陽咲が家に帰るや否や、娘に泣き芝居を打たせて、結果、陽咲は家を叩き出され、旦那からビンタまで食らった。
それで終わったと思ってたのに――
今になってまた、しかも香水業界のスターとして戻ってくるとは。
ムカつく。
あのクソ母親と同じで、しぶとくて腹黒い女。
貴子はワインを握りしめ、頭の中で策を巡らせる。
来週の金曜、旦那の会社の周年パーティーがある。
そこに陽咲を呼び出そう。
で――
うまいこと仕込んで、男を当てがう。
女を潰すなら、心と体、両方から攻めるのが一番よ。
…そう、今までもずっと、そうやってきた。
あとは、旦那に声をかけさせればいい。
奴が誘えば、陽咲は絶対来る。
……
翌朝。
陽咲は正式に洛蘭グループに出社した。
浬に紹介されると、社員たちの目が輝く。
「え、めっちゃ若くない?」
「しかも、美人…!」
「松雪No.5、大好きなんだけど!」
陽咲には専用オフィスと、3000種類の香料が揃ったラボが用意されていた。
浬の気配りは完璧で、仕事に関して困ることは一切なさそうだ。
ラボをひと通り見て回ると、浬が優しい眼差しで言った。
「どう?気に入った?」
「うん、すごく」陽咲は頷いた。
浬は少しだけ真剣な顔になり、こう続ける。
「陽咲、そろそろ誰かと一緒にいることを考えたら?ひとりじゃ、寂しいだろ?」
「……」
陽咲はふっと息を吐き、微笑む。
「粟生さん、ありがとう。でも、大丈夫。一人の方が慣れてるから」
「陽咲…」
浬は彼女の目を覗き込むように言った。
「俺、何か隠してることがあるの、分かってる。でも、話してほしい。助けになりたいんだ」
陽咲はゆっくりと窓際に歩き、ふと視線を上げる。
そこには、空を貫くようにそびえ立つ栄世グループのビルがあった。
目が鋭くなる。
「…ありがとう、でも、本当に、大丈夫」
浬は小さく溜息をつく。
彼は本当に陽咲を気にかけていて、彼女のずっと続けてきた強さと努力、そして一人で輝く美しさに心が痛んでいた。
「…ひとつ頼みがあるんだけど」
「?」
「今夜、パーティーがあってさ。お付き合い相手が必要なんだ。付き合ってくれる?」
浬の瞳は、どこか切実だった。