第9話 海外で傷を癒す
午後、陽咲のベッド脇のテーブルに、ナースが書類を届けた。
どうせ凌介の仕業だろうと思いながら封を開けると、中身は書類なんかじゃなかった。
離婚届だった。
なんて残酷な…!
陽咲の心の中は、自己嫌悪と苦しみでほとんど倒れそうだった。
あの男、子供の命を奪って、ようやく彼女を放っておくのか?
子どもが命を落とし、自分も半分死んだようなものだ。
こんな自由、代償はあまりにも大きすぎた。
夕方、彼女は産後ケアセンターへ移送された。
ここで、彼女は痛みとともに過ごすことになる。
その頃、病院の最上階にあるVIPルームでは、副院長が凌介の前に立っていた。
「夜神さん、宮園さんが退院しました」
窓際に立つ男は背を向けたまま、氷のような声を発した。
「子どもの件は、口外するな」
「ご安心ください。関係者全員に秘密保持契約を結ばせています。絶対に口を割りませんよ」
……
1ヶ月後
空港前。
タクシーがゆっくりと停まり、陽咲が降り立った。
キャリーケースを引きながら、振り返る。
この街には痛みしかない。
この傷は一生消えないけど、それでもここにはもういたくない。
もしかしたら、いつか凌介の悲惨な死に顔を見たとき、少しは楽になるかもしれない。
4年後
「松雪No.5」という香水が世界的ヒットを記録し、業界を席巻した。
そのデザイナーは謎に包まれた若き女性、
彼女の作品のように、神秘的で優雅な存在だった。
A市・国際空港。
一筋の優雅で細いシルエットが、簡単なスーツケースを手にして歩き出す。
チェック柄のスカート、腰まである濃いカールの長髪、サングラスの下にはシンプルで美しい顔立ち。
まさに美しさが溢れている。
もし「美しさ」の基準があるとすれば、彼女は間違いなく絶世の部類に入る。
「宮園さん!こっちです!」
明るい声が響いた。
「あなたが…小百合?」
「はい!先生が忙しくて、私が迎えに来ました!」
「そう、じゃあ行きましょうか」
小百合は手際よくコンパクトカーを走らせる。
後部座席でくつろぐ陽咲は、サングラスを外した彼女の目は澄んでいて、まるで清らかな泉のよう。
どこか、見ても見ても深くて分からない美しさがあった。
小百合はバックミラー越しに、彼女をチラチラと盗み見る。
うわー!やっぱり、めちゃくちゃキレイ!
写真では見たことがあったが、実物はそれ以上だった。
F国のトップ女優と並んでも、決して見劣りしないどころか、むしろ彼女の自然な美の方が際立っていた。
女優なんかやれば、即スターになれるのに!
それなのに、香水職人だなんて…
しかも、世界に数百人しかいないトップ香水職人の中で、彼女は最年少クラス。
まさに天才だ。
「宮園さん、ずいぶん久しぶりの帰国ですか?」
陽咲は遠くのビル群を眺め、フッと笑った。
だが、その眼差しには、拭いきれない怨念が滲んでいた。
「ええ、本当に久しぶりね」
「宮園さん、私も香水が大好きなんですよ!でも、まだアシスタント香水職人で…いつか『松雪No.5』みたいな香りを作るのが夢なんです!」
「努力すれば、きっと叶うわ」
「本当ですか!?じゃあ、私にも何かコツを教えてください!」
「いいわよ」
小百合のテンションが爆上がりする。
てっきり、近寄りがたい人かと思っていたのに…まさか、こんなに優しいなんて。
「…そういえば、宮園さんの年齢って?」
「さあ、何歳に見える?」
「えーっと…23歳くらい?」
「残念、24よ」
「えっ!? えええっ!? まさかの同年!?」
私の憧れの宮園さんが、同世代だったなんて…!!
小百合のメンタルが崩壊した瞬間だった。
陽咲は高級マンションに案内された。ここは師匠が空けている部屋で、しばらくの間、彼女に貸してくれることになっている。
粟生浬——陽咲を調香の世界へ導いた師匠であり、今回、国内で香水開発の新会社を立ち上げるため、彼女を呼び戻した。
陽咲は最初、断るつもりだった。帰国なんてまっぴらごめんだった。
だが、今の地位を築けたのは、粟生浬の手腕のおかげだし。彼がいなかったら、今の自分は存在しなかった。
それに、帰国する理由がもう一つあった。
おばあさんと母さんの墓参り。大好きだったユリの花を供えるために。
夜。
煌びやかな都会の灯りが窓の外に広がる。陽咲はコーヒーカップを手に、静かに街を見下ろしていた。
四年。
四年ぶりに戻ってきた、この忌々しい街。時間が経っても、憎しみは微塵も薄れていない。
憎くて憎くて仕方がない男は、未だにのうのうと生きている。
陽咲は何度も願った。「あいつが地獄に落ちますように」と。
けれど、神様は一度たりとも願いを叶えてくれなかった。
それどころか、あいつはますます成功し、莫大な財産を築き、栄光の頂点に立っている。
陽咲は唇を噛み締め、そっと目を閉じた。
悪党のツケは、必ず回ってくる。
それが今日じゃなくても、明日じゃなくても——待ってやる。あいつの破滅を、この目で見届けるために。
しかし、今夜はどうも調子が悪い。
本来なら、夜は一番インスピレーションが湧く時間のはずなのに、ここに戻ってきた途端、思考が散らかって何も浮かばない。
とりあえず、コーヒーを飲み干して、PCを開く。新作のデザインをまとめようとするがあいつやっぱりダメだ。頭が真っ白。何も書けない。
まぁ、浬もすぐに仕事に入れとは言わなかったし、少しは休めってことだろう。
……
粟生浬
トップの香水職人。『洛蘭香水会社』の創設者、28歳。
四年前、雨の夜に起きた事故で、彼は落ちぶれて海外に行こうとしていた陽咲を轢いてしまった。
彼女を自宅で療養させたとき、陽咲が天才的な嗅覚を持っていることに気づいた。
それから彼は、自腹で陽咲をF国の名門学院へ送り出し、徹底的に調香を学ばせた。
そして、陽咲は彼の会社で才能を開花させ、世界を驚かせる香水「松雪No.5」を世に送り出した。
……
土曜日の朝。
陽咲のスマホが鳴った。浬からの電話だった。
陽咲は浬から電話を受けた。彼の姪っ子を家に預かっているんだけど、仕事が忙しくて、陽咲と彼のアシスタントに一緒に博物館に連れて行ってほしいってお願いされた。
たまには気分転換もいいかと思い、OKすることに。
9時半、小百合が浬の姪っ子——藤原百花を連れて迎えに来た。
博物館。
土曜日とあって、人がごった返している。
小百合と陽咲は百花の手をしっかり握りしめ、絶対に離さないよう気をつけながら、館内を回った。
百花は恐竜エリアが大のお気に入りらしく、ずっとそこに張り付いて離れない。
「小百合、スマホの充電が切れちゃったから、バッテリー探してくるね」
「了解!百花は任せて」
陽咲は恐竜エリアを出て、充電スポットを探していると——スマホが鳴った。
H国の友人、星野嬉夏からだった。
「もしもし、嬉夏、俺のこと恋しくなった?」
「なんか、そこめっちゃうるさくない?」
「博物館にいるのよ。ちょっと待って、静かな場所に移動する」
陽咲は少し人の少ないエリアへと足を運んだ。
目の前には「関係者以外立入禁止」の札があったが、電話するだけなら問題ないだろう。
そう思い、そのまま奥へと進む。
「新しい歌、どうなってる?」
「まだ練習中、最近ちょっと喉が痛くて、練習できない」
「そっか、休むことも大事だよ」陽咲は壁に寄りかかりながら言った。
そのとき——
耳に飛び込んできたのは、幼い子供の悲鳴だった。
「やめて!はなして!誰なの?!やめて!」
「クソガキ、黙れ!」
バタン。
誰かが口を塞がれた音がした。