第1話 妊娠してた
病院のエコー室の前。
女の子はエコー写真を握りしめ、その綺麗な顔は真っ青だった。
母親になる喜びなんて、微塵もない。
あるのは、ただただ圧倒的な恐怖。
エコー写真の結果には、こう書かれていた。
「単胎、心拍確認、妊娠8週相当」
…妊娠してる。しかも、もう2ヶ月。
ちょうどその時——
プルルルル……
スマホが鳴った。画面に映る名前を見て、彼女は息を深く吸い込み、通話ボタンを押す。
「……もしもし!」
「会社に来い」
低く冷たい声。まるで地獄の悪魔。
「私……」
言い終わらないうちに、ブツッと通話が切れた。
一切の拒否権なし。
陽咲はエコー写真をバッグにしまい、急いで病院を出ると、街の中心にそびえ立つ、あの一番ヤバいなビルへと急いだ。
そこへ行く理由は、いつも一つだけ。
旦那を満足させるため、彼のどんな欲望にも応えなきゃいけないってわけ。
時間も場所も関係ない。
彼が電話一本かければ、何をしていようと駆けつけなければならない。
さもなければ、待っているのは地獄。
……
会社の32階のスイートルーム。
陽咲は、少しだけソファで休もうとしたが。
ピッ。
指紋タッチの音と共に、ドアが開く。
黒いオーダーメイドスーツに包まれた、長身の男がゆっくりと入ってきた。
その端正な顔立ちは、冷たく鋭い。
夜神凌介。
彼女の旦那様。
陽咲はすぐに笑顔を作り、立ち上がった。
「おかえりなさい、出張は順調だった?」
時刻はまだ昼下がり。
暖かい陽光が、男の彫りの深い顔立ちを際立たせている。
彼は、何も言わずに紙袋を投げて寄越した。
「シャワー浴びて、それ着ろ」
いつもの命令口調。
袋を覗くと、中身は淡いピンクのランジェリーだった。
次に何が起こるのか、容易に想像がつく。
……っ。
陽咲の顔が、ほんのりと赤くなった。
「今日、お腹が痛くて、体調が…ちょっと…」
か細い声で訴える。
しかし——
「言い訳すんな」
男は冷たく鼻で笑った。
「……本当に痛いの」
陽咲は顔を赤らめ、言い訳するように言った。
お腹の中には、もう2ヶ月の赤ちゃんがいる。
彼の行為に耐えられるはずがない。
「今日はお休みじゃダメ?ちょっとだけ……」
陽咲は大胆に頼んだ、腹の中の赤ちゃんのために、夫婦生活は無理だと。
しかし、男はポケットに手を突っ込んだまま、ゆっくりと彼女へと歩み寄る。
「お前に休む権利があると思ってんのか?」
陽咲の目に涙が浮かぶ。
彼の冷たい表情が、胸に突き刺さる。
……
一年前。
義母に騙されて、ジジイに売られた夜。
陽咲が絶望の深淵にいる時、凌介はまるで救世主みたいに現れて、彼女を深淵から引き上げてくれた。
家に帰ると、父親にこのことを話そうとしたけど、義母は逆に言いがかりをつけて、彼女が娘をクラブに連れて行って、危うくレイプされかけたと嘘をついた。
父親は何も言わずに彼女に平手打ちをして、家から追い出した。
彼女は一人、放り出されてしまった。
大雨の夜、酔っ払った男に引き止められて、慌てて雨の中で転んだ時、再び凌介に出会った。
その瞬間、彼こそが彼女の救世主、足を踏み入れる場所を与えてくれて、温かさと慰めをくれた。
彼は背が高く、顔立ちは整っていて、気品溢れるオーラを持っていた。
彼の所作の一つ一つからは、強烈な貴族的な雰囲気が漂っていた。
そして、彼の正体は国内の最大財閥、栄世グループのトップ。富と権力を掌握する、冷酷な男。
たった一ヶ月で、彼の甘い言葉に溺れ、誰にも言わずに結婚した。
彼女は結婚後に待っているのは、幸せで甘い新婚生活だと思っていた。
……だけど。
婚姻届を提出したその夜。
彼は、耳元で囁いた。
「お前との結婚は、復讐の始まりだ」
陽咲はバスルームから出ると、腕を抱えて恥ずかしそうにベッドの前に立った。
この男の趣味って、彼女を弄ぶか考えること?出張のたびに、彼女の限界を試すようなアレを買ってきて、着ろって強制するし。
ベッドで腕枕している男は、パリッとした白シャツにスリムなスラックス。
見た目は上品だけど、こっちからしたらスケベなクソ男でしかない。
「ほんとに体調悪いの…今日は無理…」
陽咲は必死にお願いするように声を絞り出した。
だが、男の冷え切った視線が瞬時に突き刺さる。
「お前拒否権はない」
その目を見た瞬間、陽咲は無性に逃げ出したくなった。
「…いつまでこんなこと続けるつもり?いつになったら私を解放してくれるの?」陽咲は初めて彼に反抗するような口調で問い詰めた。
堪えていた涙が、こぼれ落ちる。
私はただの人間なのに。
なんで、おもちゃみたいに扱われなきゃいけないの?
男はベッドからゆっくりと立ち上がり、まるで飼い猫が反抗しだしたのを楽しむように、面白そうに唇を歪めた。
「お前を解放する?はは、そんな日が来るとでも?たとえ飽きたとしても、お前を手放す気はない」
「……っ!」陽咲の悔しさが涙となって、また零れる。
男はすぐ目の前まで歩み寄り、陽咲の顎をつまむと、無理やり顔を上げさせた。
その表情に、いつもと違う強気な色が見えたからか、ますます面白そうに目を細める。
男が顔を寄せ、唇を奪おうとした瞬間。
陽咲は、ぷいっと顔を背けた。
「拒むつもりか?」男が冷笑する。
次の瞬間——
陽咲は、男の肩に担ぎ上げられ、ふかふかのベッドに放り投げられた。
……
二時間後…
息を切らしながら、陽咲はベッドシーツに残った淡い血の跡を見て、恐怖で息を飲んだ。
そして、そっと自分のお腹に手を当てる。
……赤ちゃん、大丈夫だの?
陽咲は足元のふらつく身体を引きずるように、また病院へ向かった。
エコー室で、隣のミニ電車の音を聞こえた瞬間——
「……っ!」
彼女の目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
隣にいた看護師が慌てて声をかける。
「お嬢さん、大丈夫です。赤ちゃんは元気です。心拍もしっかりしていますよ」
陽咲は医者のオフィスに入り、医者が彼女を覚えている、いきなり言われた。
「どうして突然出血されたのでしょうか?今朝までは何ともなかったのに。この子は、どうなさるおつもりですか?」
陽咲はその言葉を聞いて、思わず答えた。「欲しい」
赤ちゃんを守りたいという気持ちが強く湧き上がってきた。
さっきお腹の中で赤ちゃんの心音を聞いた時、母親としての責任感を感じた。
医者は彼女を一瞥した後、真剣な表情を浮かべた。「20歳にも満たないのに、旦那さんは来てないのか?」
「彼は…忙しいです」
「そうですか。それでは、彼にお伝えください。三ヶ月以内は特にご注意いただき、赤ちゃんを最優先にしないと、流産のリスクが高まります。いくら若くても、無理は効きませんよ」医者は彼女の首元のキスマークを見て、暗に示唆した。
「わかりました、ありがとうございます」陽咲は顔を真っ赤にして答えた。
陽咲はほっとしながらも、また不安が襲ってくる。
凌介に、この子のことを、どうやって伝えたらいいの?
言わなければ、この子の命は危険。
でも、言ったら、もっと危ない。
きっと、凌介は迷わず「堕ろせ」と言うに決まってる。