第8話 子供はもういねぇ
これで、この女とも完全に関係はなくなる。
こいつと縁を切れば、子供の体に流れる宮園の血も、なかったことにできる。
…いいだろう。
そこまでして産みたかったってんなら、この子を彼女の最後の償いとして受け入れてやる。
男が病室を後にする。
かすかな温もりも一緒に消え、病室はさらに冷え込んだ。
そして、十数分後。
ベッドの上の女の子が、ゆっくりと瞼を開いた。
絶望に濡れた涙が、頬を伝い落ちていく。
震える手をお腹に添えた。
まだ少し膨らんでいる。
でも、もうそこには誰もいない。
「あぁ……」
悲痛な叫びが、病室に響く。
慌てて駆け込んできた看護師たち。
ベッドの上で暴れる陽咲を、すぐに押さえつける。
「奥様、ダメです!まだ動いちゃいけません!」
「私の子は!?どこ!?どこなのよ!!」真っ赤に充血した瞳で、必死に問い詰める陽咲。
二人の看護師は、一瞬だけ目を合わせる。
五分前、特別極秘の指示を受けたばかり。
彼女が可哀想なのはわかってる。
でも…答えは言えない。
「奥様、まずは体を休めましょう」
申し訳なさそうな視線が、何よりの答えだった。
…あぁ、もうわかった。
あの子は、もういないんだ。
あの状況で、生きてるわけがない。
…あいつが殺したんだ。
あいつは、人間の皮を被った化け物だ。
自分の子供を、この手で殺したんだ。
そんなに憎いなら、いっそ私も殺せばよかったじゃないか!!
なぜ子供だけ…なぜ私を生かした!?
「…あああああああ!!!」
陽咲は、もう何もかもどうでもよくなった。
こんな世界、生きている意味なんかない。
赤ん坊をあの冷たい世界に独りぼっちになんて、させたくない。
手を伸ばし、点滴の針を引き抜こうとする。
「やめてください!奥様!」
「…いいから死なせて!!私も連れてって!!!」
パニックになった看護師が、もう一人の看護師に叫ぶ。
「早く先生呼んで!」
「はいっ!!」
一人が慌てて部屋を飛び出した、その時だった。
ガチャ。
病室のドアが開く。
看護師はホッとした顔で振り向いた。
だが、そこに立っていたのは医者ではなかった。
氷のような視線を宿した、凌介だった。
「……」
ただ静かに、陽咲を見つめる。
床に転がった点滴の針。
手の甲から滲む血。
自殺未遂の女。
だが、その目には一切の感情がない。
「夜神…お前を殺す……殺してやる……!!!」
陽咲は、無我夢中で何か刃物を探した。
とにかく…何でもいい。
こいつの喉笛を裂けるものなら、なんだっていい。
そんな彼女を、凌介は一瞥し、冷たく命じる。
「…放せ」
看護師は、一瞬躊躇うが、結局彼の言葉に従った。
自由になった陽咲は、ベッドから飛び降りようとする。
…が、術後の身体では、立ち上がることすら難しい。
その瞬間、凌介の大きな手が彼女を押さえつけた。
「……もう、いい加減にしろ」
低く、冷たい声。
陽咲の全身が震える。
だが、それでもこの怒りは抑えられなかった。
ふと、看護師の横に落ちていた注射器が目に入る。
殺してやる。
何も考えず、それを手に取る。
そして。
ブスッ!!
男の手の甲に、注射針が深々と刺さる。
もう一度。
ブスッ!!
そして、また。
ブスッ!!ブスッ!!ブスッ!!
何度も、何度も、何度も突き立てる。
その度に、赤い血が溢れ出る。
だが。
凌介は、微動だにしない。
血まみれの手をただ見つめ、何の反応も示さない。
「…………」
その無反応さが、逆に陽咲を恐怖させた。
はっとして、注射器を放り投げる。
そして、自分の胸元を掴み、荒い息を吐く。
もう、ダメだ。
涙も枯れるほど、痛みに満ちた瞳で、陽咲はただ震えていた。
凌介は微かに息を吐き、近くにあった紙ナプキンを取り、傷口を押さえながら冷ややかに言った。
「お前の母親の罪、この子の命で帳消しだ。これで、俺たちはおあいこだ」
「……おあいこ?」陽咲の目が、憎しみに燃える。
「ふざけんなよ……!!おあいこなわけねぇだろ!!」
「命を奪ったのはお前だ!!あの子は、生きてたんだ!!それを、お前は……!!」
凌介の表情は相変わらず冷徹で、まるで子どもの命が彼の目には何の価値もないかのようだった。
「この子は最初から生まれるべきじゃなかったんだ。全部お前が引き起こしたことだ、」
「……っ!!」
「初めから堕ろしていれば、こんなことにはならなかった。痛みを感じることすらなかったのにな」
ガタッ。
陽咲の呼吸が荒くなり、身体がぐらりと揺れた。
何かを掴もうと、手を伸ばす。
でも、凌介の手は、差し伸べられなかった。
彼女の指先が掴んだのは、冷たいベッドの柵。
まるで、死にかけの患者のように、必死で息をしていた。
凌介の目が、一瞬だけ揺れる。
だが、それもすぐに消えた。
「……俺を恨むなら、せいぜい生き延びることだな」
「お前が死んだところで、俺は何も感じない。むしろ、せいせいする」
「……!!」
陽咲はその言葉を聞いて、まるで血が体中を駆け巡るように感じ、怒鳴った。
「夜神……ふざけんな……!」
「夜神、私が死んでほしいのか?そんなに簡単にはいかないわ。息子の命を奪われたうえで、私の命もあげるなんて、絶対にさせない!絶対に生きてやる…」
男は、わずかに口元を緩めた。
その時だった。
陽咲の体が、突然ガクンと震え、激しく咳き込んだ。
「……っ、げほっ、ごほっ……!!」
だが、凌介はその様子を見ても、さらに冷たい言葉を投げつけた。
だが、男はその瞬間、さらに冷酷な言葉を放った。「もしここで死んだら、俺が一年間お前を寝取ってやったことを考えて、せめて遺体だけは拾ってやる」
「…………っ!!」
「…死ぬもんか!!出てけ!!二度と顔を見せるな!!」
陽咲は、全身の力を振り絞り、叫んだ。
この男は、まさに悪魔の転生だ。
三秒後。
扉が、閉まる音が響いた。
夜神凌介は、去っていった。
陽咲はベッドに沈み、涙を堪えることすらできなかった。
生きているのが、こんなに辛いなんて。
だが、あの男の顔を思い出した瞬間、ふつふつと湧き上がるものがあった。
死んでたまるか。
生きてやる。
どんな形でも、この目で見届けてやる。
アイツが、どんな地獄に落ちるのかを。
病院の別のナースステーションの前、保温箱の中で寝ている赤ちゃんに男の目が釘付けだ。
小さくて細い体、見ているだけで胸が痛くなる。
その細い血管が、薄い肌の下で透けて見えるようだ。小さな手足が、まるで栄養失調みたいだ。
この子、すべてが弱々しくて痛々しい、こんなにも小さい。
保温箱の前に立つ男の心には、強い自己嫌悪と後悔がこみ上げてくる。目に浮かんだのは優しい色、そして、無言で小さな子供に約束をする。
「何があっても、俺はお前の立派な父親になる」
病室で、陽咲は医者と会う。彼女は必死で頼んだ。
「子供の遺体が欲しい。ちゃんと埋めたいの」
でも医者は言った。「子供は夜神さんが埋めたんです」
陽咲の涙はまた止まらなくなった。この男、本当にあの子のために墓を作ってくれるのだろうか?
こんなに冷酷な男が、病院のゴミ箱にでも捨ててるんじゃないのか?
陽咲の凌介への憎しみは、言葉にできないほど強くなっていた。
この男こそ、彼女が生涯で最も憎んでいる人間だった。