第12話 家を追い出された宮園のお嬢様
陽咲は一瞬噛むのをやめ、長い睫毛の下にかすかな影を落とした。
「今のところ、特に考えてない」そう言って首を横に振る。
「陽咲、俺……」浬はまっすぐな眼差しで見つめる。
「粟生さん、いいから飯食いなよ。帰ったら新作の研究しなきゃだし」
陽咲はサラッと流し、顔を上げた。
彼が自分を好きなのは知っている。だけど、その気持ちを受け止めるつもりはない。
陽咲はよく分かっていた——一生結婚することなんてありえないって。
たとえ、浬みたいに優しくて、できた男でも、もう恋愛に踏み込む勇気なんて、どこにもない。
レストランを出た瞬間、陽咲のスマホが鳴った。
彼女はチラッと画面を見て、浬に向き直る。
「百花を送ってあげて。私、ちょっと実家に寄ってくる」
浬は少しだけ寂しそうに目を細め、「あとで連絡する」
「うん」
陽咲は百花に手を振る。「百花、またね」
「陽咲ばちゃん、またね〜!」ふわふわした声が耳に心地いい。
陽咲の目にちょっとした悲しみが浮かんだ。もし…もしあの子が生きていたら……百花より1つ年上だったのに。
陽咲はくるりと背を向け、電話に出た。
今朝、父に「帰国した」とだけメッセージを送っていた。
「……もしもし、お父さん」
「今夜、家で飯でも食え」低く響く父の声が、受話器の向こうから聞こえてくる。
この声を聞くのは、何年ぶりだろう。
「お父さん、私……」陽咲は小さく息をのむ。
「まだ怒ってるのか?」宮園正樹が深く息をつく。
「……怒ってない」陽咲は唇を噛んだ。
「なら、帰ってこい」
結局、陽咲は断りきれず、「……分かった」とだけ答えた。
宮園家
高級なソファに腰を下ろし、宮園正樹は階段を降りてくる妻に目をやった。
「陽咲が帰国した。夕飯、少し豪華にしてやれ」
宮園貴子は驚いたふりをして言った。「あら〜!あの子、ちゃんと帰ってきたのか!何かあったんじゃないかと思ってたよ!」
正樹は眉をひそめ、じろりと妻を見た。「陽咲は俺の娘だ。昔のことはもういい加減にしろ」
貴子の心の中では冷たい笑みが浮かんでいた。
宮園家で外に発表されてるお嬢様、陽咲なんかじゃねぇよ。
その時、彼女のスマホが鳴った。
画面をちらっと見て、貴子はそのまま庭へと出る。
「もしもし。例の調査、どうなった?」
「宮園さん、ついさっき分かりました。洛蘭香水会社の謎の香水職人の正体です」
貴子の眉がピクリと動く。
「誰なの?」イラついた声が漏れる。
今年に入ってから、貴子の会社の売上はガタ落ち。
原因は、洛蘭が出した松雪No.5っていう香水だ。
市場を完全に奪われた——その原因を作った香水職人が、どうしても許せなかった。
「その香水職人は、新人で、しかもまだ若い。名前は宮園陽咲です」
電話の向こうの男が、畳みかけるように答える。
貴子の瞳がギラリと光る。
「……は?」
手が震えた。
「ちょっと待って、なんて?宮園陽咲が……あの香水職人??」
「間違いありません。最新の確実な情報です。しかも、彼女はもう国内に戻っています」
貴子の心臓がドクンと跳ねた。
松雪No.5を作ったのが、陽咲だって?
5年前、宮園家を追い出されたあの陽咲が?
ありえない。
なんで、なんでアイツが香水職人になんてなれるのよ?
でも、その瞬間、貴子の脳裏に陽咲の母の姿がよぎる。
そうか、そういうことか。
あの女も、天才香水職人だった。
……遺伝か。
……クソッ。
貴子はグッと歯を食いしばる。
でも、いや、待てよ?
陽咲が本物の香水職人なら、——手元に引き込めばいい。ウチの会社で働かせれば、こっちも爆売れする香水が作れる。
だって、松雪No.5は香水業界の伝説を生み出したんだから。
今も売上はトップクラス、——
……フフ。面白くなってきたじゃない。
ちょうどその時、背後から女の声がした。
「母さん」
貴子が振り返ると、そこには愛娘の宮園瑠花が立っていた。その目は、慈しみと誇りに満ちていた。
「瑠花、こっちに来て。新作ドラマの調子はどう?」
「もちろん、今年の最優秀主演女優賞は私のものよ」
宮園瑠花はエレガントな装いで、まだ23歳ながらすでにトップ女優の座を確立していた。
貴子はこの娘に惜しみなく金をつぎ込み、最高の仕事を用意してやった。その結果、今や誰もが知るスターになった。
「陽咲が今夜帰ってくるわよ」貴子は何気なく娘に言った。
「は?アイツが?…よくものこのこと戻ってこれるわね」瑠花は鼻で笑った。
「甘く見ないほうがいいわよ。今やあの子、洛蘭グループのトップ香水職人らしいの。しかも、あの松雪No.5を作ったのは陽咲だって」
「は?アイツが松雪No.5のクリエイター?」
瑠花は信じられないという顔をした。あの出来損ないがそんな才能持ってるなんて?
「本当かどうかは、今夜本人に聞けば分かるわ」
貴子はそう言ってから、娘に向かって言った。
「とりあえず、陽咲には優しくしときなさい。うまく言いくるめて、うちの会社に引っ張り込むわよ。金のなる木は手放せないもの」
「はいはい、頑張ってみるわ」瑠花は面白がるように微笑んだ。
今や自分はトップスター、一方で陽咲はただの香水職人。格が違う。
貴子がリビングに戻ると、夫が執事と話しているのが聞こえた。
「今夜の料理だけど、陽咲の好きなエビ入り茶碗蒸しを一品入れてくれ」
貴子はその言葉を聞いて、ムッとした。執事がいなくなった後、ソファに腰を下ろして皮肉っぽく言った。
「あなた、陽咲の好物を今でも覚えてるなんてねぇ。でも、あの子の目にはもうあなたなんて映ってないんじゃない?」
正樹はため息をつきながら答えた。「もういいだろう。何だかんだ言っても、陽咲は俺の娘だ。飯くらい食わせてやってもいいだろう」
「でも、忘れちゃダメよ。あの子の母親があなたを裏切ったことを。そのせいで、あなたはどれだけの恥をかいたか」
貴子は腕を組み、わざと過去のことを蒸し返した。
正樹の表情が一変した。あの屈辱を忘れたことなど一度もない。妻の裏切りは、彼を上流社会一番の笑い者にしたのだから。
午後6時半。
陽咲はタクシーを降り、実家の門の前に立った。
バッグを握りしめたまま、しばらく立ち尽くす。
この家に足を踏み入れるのは、どれくらいぶりだろう?
あの頃、彼女はおばあさんと暮らしていた。
雑草のように生き、おばあさんだけが唯一の味方だった。
その後、凌介に復讐されて、騙されて結婚させられ、子供を亡くし、命がけで逃げ出した。
今やっと、自分らしく生きられるようになった。
お父さんは今の自分を、少しは認めてくれるだろうか?
どんな子供だって、親に認められたいものだ。
どれだけ酷い目に遭わされても、その気持ちは消えない。
インターホンを押すと、扉が開いた。
小さな門を開けて敷地に入り、庭を通り抜けてリビングへ向かう。
父はリビングで待っているかと思ったが、そこにはいなかった。
静かに立ち尽くす陽咲——
すると、突然二階から声がした。
「へぇ~、これはこれは!誰かと思えば、陽咲じゃない!久しぶりねぇ!」
貴子が、二階の手すりに手をかけ、ゆっくりと降りてきた。