第7話 子どもが欲しい
それに今は、体の奥から湧き上がる衝動が理性をぶっ潰してて、後のことなんか考えてる余裕はねぇ。
今、彼が欲しいのは彼女だけだ。
「夜神、やめて!お願いだから、離して…!」
陽咲は怯えた声をあげるが、凌介は容赦なく腕を引き寄せ、熱を帯びた唇を押し当てた。
陽咲はビビって涙ボロボロ。普段からこの男、ちっとも優しくねぇのに、今の状況で耐えられるわけないじゃん…!
「お前に拒否権なんてねぇ」
酒の匂いが陽咲の鼻をつき、不安が倍増する。
酒、飲んでたの?まさか…!
それに、酒の中に何か別のものが入っているなんて、彼女は知る由もなかった。
彼女の頭に嫌な予感がよぎるが、もう遅い。
「夜神…!この最低っ…んっ…!」
罵声はすべて彼の口の中に飲み込まれた。
こいつ、狂ってる…。
コレが、子どもを消したいっていう意思表示なの?
陽咲の胸に絶望が広がる。
普段だって敵わないのに、正気じゃない凌介にどうやって抗えっていうの?
涙が枯れ、声がかすれても、彼女の拒絶は届かない。
嵐に散らされる花のように、陽咲はただ震えながら、抵抗を諦めるしかなかった。
どれくらい経っただろう。
次の瞬間、「っ…!」
陽咲の悲鳴が響き、足元に温かい液体が広がった。
意識が、ふっと遠のいた。
「……っ!!」凌介の目が見開かれた。
手のひらにべっとりとついた赤い液体が、脳を一瞬で覚醒させる。
心臓がギリギリと締め付けられるような痛みを感じた。
俺は…何を…!
凌介は息を詰まらせ、震える手でスマホを掴んだ。
「救急車をすぐに回せ!俺の家だ、急げ!!」
叫びながら、冷や汗が額を流れる。
「陽咲…」
凌介はスマホを投げ捨てて、陽咲の名前を叫んだ。
頭が真っ白になった——こんなに動揺したのは初めてだ。
ソファーと床に広がる血の跡、その光景が目に焼き付いて離れない。
何かしなきゃ…でも、何もできない。
歯がゆさを噛み殺しながら、彼はしゃがみ込み、陽咲の頬を軽く叩いた。
「陽咲おい、目を開けろ!頼む…!」
焦燥が胸を掻き乱す。
ソファに横たわる陽咲の顔は紙のように白い。
その足元に広がる血の海が、彼女の命をゆっくりと奪っていくかのようだった。
そのとき――
彼の手が陽咲の膨らんだお腹に触れた。
中の子が、微かに動いた。
まるで、必死に生きようとしているかのように。
この瞬間、凌介の目には突然涙が浮かび上がった。
初めて、自分が死ぬべきだ、地獄に落ちるべきだと思った…。
俺は、何をしてしまったんだ…。
外からサイレンの音が響いた。
凌介は迷わず、血まみれの陽咲を抱き上げ、玄関を飛び出した。
看護師と医者たちはこの光景を見て、びっくりしてすぐに陽咲を車に運び込んだ。
車の中で、医者たちはすぐに様々な救急処置を始めたが、誰一人として何が起きたのかを聞こうとしなかった。
彼らは凌介のボタンがかけられていないシャツを見て、何かを察したようだった。
病院に到着すると、陽咲は即座に手術室へ運び込まれた。
凌介は手術室の前に立ち尽くす。
彼の視線は、自分の血に染まった両手に落ちる。
まるで、殺人犯だ。
大きく息を吐き、目を閉じた。
俺は、地獄に落ちるべきだ。
そのときだった。
「オギャァァァ!」
手術室から、赤ん坊の産声が響く。
凌介の身体が硬直する。
生きてる…?
しばらくすると、看護師がバスタオルに包まれた赤ん坊を抱えて出てきた。
「夜神さん、おめでとうございます!男の子ですよ!」
凌介の目が赤ん坊に向く。
しかし、次の瞬間には言葉を絞り出した。
「……彼女は?」
看護師の表情が少し曇る。
「奥様はまだ手術中です。大量出血があったので、縫合手術を行っています」
そのとき、腕の中の赤ん坊が小さな手を動かし、突然大きな声で泣き出した。
凌介の視線が再び、我が子へと向かう。
小さな命が、力強く泣いている。
心臓が、痛いほど震えた。
俺の、子ども…。
看護師が言う。「夜神さん、赤ちゃんを新生児室に連れていきますね」
そして、凌介の目は手術室のドアに張りついたまま、不安の色が濃く滲んでいた。
陽咲、お前は死んじゃダメ。
俺の許可なしに、勝手にくたばるなんて許さねぇ。
待ち続けること30分。凌介にとって、この時間は人生で二度目に地獄のような時間だった。
初めては、母親が行方不明になった時。
今もまた、彼女を失うかもしれない恐怖に、心が引き裂かれそうだった。
陽咲が生きていてほしい理由なんてわからねぇ。
でも、絶対に死なせねぇ。
矛盾だらけの感情。
ようやく、手術室のドアが開いた。医者は少し疲れた顔をしていたが、凌介の顔を見てすぐに背筋を伸ばし、こう告げた。
「夜神さん、ご安心ください。奥様の容態は安定しました」
その言葉を聞いた瞬間、凌介は息を吐き出した。長い間、胸の奥で詰まっていたものが、ようやく解放されたように。
張り詰めていた体の力が抜け、心の奥底からこみ上げる感謝の言葉がこぼれた。
「お疲れ様です」
その時、看護師たちが手術を終えた陽咲を病室へ運んできた。
白いシーツに包まれ、長い髪が乱れたままの彼女。その顔色は血の気がなく、まるで命がない陶器の人形のようだった。
胸がギュッと締めつけられる。
一緒に病室へ行こうとした凌介を、医者が止めた。
「夜神さん、しばらく彼女を休ませてあげてください。まだ麻酔が切れていませんし、今は興奮や刺激は禁物です」
凌介は黙って頷いた。
「それより、先にお坊ちゃんに会われたらどうですか?」
医者たちが去っていく。凌介は、病室へ運ばれていく陽咲の姿を見送ると、一瞬だけ目を閉じた。
間に合った。
もしあと数分遅れていたら、今頃俺の目の前に横たわっているのは、冷たくなった母子二人の亡骸だったはずだ。
胸の奥から込み上げる罪悪感。
拳をギュッと握りしめたまま、凌介は観察室へと向かった。
保育器の中では、生まれたばかりの小さな命が、すやすやと眠っている。
小さな拳を握りしめ、黒い髪、端正な眉、そして…驚くほど整った顔立ち。
「夜神さん、坊ちゃん、そっくりですね」
看護師が微笑む。
確かに…俺にそっくりだ。
不思議な感覚だった。
看護師が保育器を開けて、オムツを替えようとした瞬間、凌介は思わず手を伸ばし、そっと指先で赤ん坊の小さな手に触れた。
すると、小さな指がパッと開き、彼の指をしっかりと握りしめる。
驚くほどの強い力で。
小さな命が、まるで俺を求めているみたいに。
胸の奥で、何かが大きく揺れ動いた。
本当に信じられない、この子の血が夜神家の血だなんて。
観察室を出た凌介は、そのまま陽咲の病室へと向かった。
ベッドの上の彼女は、まだ眠ったまま。
静かな病室、柔らかい照明の下、彼女の姿はまるで壊れかけた細工のようだった。
彼女は生死の境を彷徨ったばかり。
今もまだ、壊れそうなくらい弱々しい。
じっと彼女の顔を見つめながら、凌介はふっと息を吐いた。
そして、静かに決意する。
彼は振り返らずにその場を離れた。
彼の子供は、宮園家の人間とは一切関係ない。