第3話 彼の子を宿して逃げた
陽咲の息が詰まる。こいつ、ほんと悪魔だ。子どもまで手をかける気か。
「赤ちゃんに罪はない…」陽咲は絞り出すように呟いた。
「お前みたいな女に、俺の子を産む資格があると思ってんのか?」凌介が皮肉げに笑う。
陽咲は俯き、力なく「ごめんなさい…これは…ただの事故です」と呟いた。
凌介は嘲笑うように口角を上げた。「事故?へぇ…」
どうせ計算づくだろ。
「俺の子を利用して許しを乞うつもりなら、やめとけ。時間のムダだ」
男は歯ぎしりするように言い放った。
陽咲はその言葉に胸が締め付けられ、堪えきれずに涙が滲む。
「…いや、そんなつもりじゃない…」
「この世の女、誰でも俺の子を産む資格があるが、お前だけ例外」
凌介の声は凍りつくほど冷たい。
「汚え血を継がせるわけにはいかねぇ」
吐き捨てるように、「堕ろせ」。
陽咲の肩が震え、涙が溢れる。母親の罪を背負って、玩具みたいに弄ばれ、それでもまだ足りないっての?
命まで差し出せってか?
「今すぐ病院行く」
陽咲は絶望の中、お腹をそっと抱いた。
ごめんね、ママ、どうにもできない。
陽咲は目を閉じ、内心で言葉にできない痛みを感じていた。
だけど…ほんとに無理なの?
彼の子供なのに!
そこへ、凌介のスマホが鳴った。
彼は画面を一瞬見て、すぐに電話を取った。
「もしもし」
「社長!大変です!緊急事態が発生しました!今すぐ戻って処理しなければなりません」金融部の部長が焦った声を上げる。
凌介は時間を見て、まるで彼女を病院に連れて行くことにさえ耐性がないかのように冷たく言った。「自分で処理しろ」
彼は知っていた、彼女にはこの子を残す勇気がない
陽咲は彼の後ろ姿を見つめ、テールライトが消えていくのを見届けた。
そして、彼が消えるのを待って、一気に駆け出した。
逃げなきゃ!
車に飛び乗り、無我夢中で走る。どこへ向かうのかも分からない。ただ、この街から消えなきゃいけない。
やがて、道端に停まる長距離バスを見つけた。
「お嬢ちゃん、どちらまで参りますか?」乗務員のおばさんが声をかける。
陽咲は一瞬の迷いもなく、「終点まで」と切符を買った。
決めた。逃げる。
彼に支配される人生は、もう終わりだ。
スマホの電源を落とし、バッグを抱きしめ、疲れ果てて眠りに落ちた。
夜。
別荘の駐車場に、漆黒のブガッティが滑り込む。
仕事を片付け戻った凌介は、当たり前のように彼女が手術を終えて帰宅していると思っていた。
しかし――
「…いねぇ?」
リビングは静まり返っていた。
陽咲は、いつもなら彼の帰宅を察して駆けつける。
なのに今夜、どこに隠れているのだろうか?
「宮園」
鋭く名前を呼ぶ。
返事なし。
足早に階段を上がり、寝室、書斎、彼女がよく座っていたテラス…。
どこにも、いない。
この時、ようやく気づいた。
こいつ、そもそも帰っていなかった。
午後、彼女に帰宅するように言ったはずなのに、彼女は一体どこに行ったのか?
突然、一つの考えが頭をよぎった。
まさか、逃げたのか?
電話をかける。
『おかけになった電話は…』
「…クソが」
スマホを握りしめ、ギリッと歯を食いしばる。
クソ女のくせに、逃げるなんざ100年早えよ。
どこ行った。
どこに消えやがった――!?
一方、B市。
長距離バスの車窓から、陽咲は見知らぬ町を眺めていた。
凌介の支配から逃れたことで、ようやく息ができる気がした。
手持ちの金はまだある。
身を隠すには十分だ。
そして彼が絶対に追えないよう、新しい携帯を手に入れた。
このまま、もっと遠くへ。
彼の一生届かない場所まで。
彼女にはH市に大学時代の友人がいる。彼女は、自分の故郷がとても美しい場所だと言っていた。そこは四季が春のように温暖で、非常に素朴で、地理的に遠く、交通も不便で、通信すら発達していない場所だ。
今、彼女はその場所で暮らしたいと思っている。
彼女は多くのことを考えた。凌介はきっと世界中を探しているだろうし、きっと激怒しているだろう。彼がいつか彼女を見つけたら、きっと殺されるだろう。
しかし、彼女はもう気にしない。
もしかしたら彼女の行動は愚かかもしれないが、母親として、自分の子供を守ることは本能だ。
もし彼女がその子供を殺すことができるのなら、彼女の赤ちゃんはどれほど可哀想だろうか?
一つ、彼女は予想が当たった。
凌介は本当に世界中を探している。
……
深夜の街、逃げた彼女と追う男
午前0時過ぎの都会の街。
凌介は会社のボディガードを総動員し、陽咲が行きそうな場所を片っ端から探していた。
午前4時。
凌介は車を走らせ、公園の脇で一旦停車する。
ポケットから煙草を取り出し、火を点け、怒りを押し殺すように深く吸い込んだ。
その時——
「た、助けて…!誰か…!」
女の叫び声が耳に飛び込んできた。
顔を上げると、酔っ払いが若い女性を引き寄せて、何かをしようとしているのを見た。
凌介の目が細く鋭く光る。
煙草を投げ捨て、まっすぐ酔っ払いの方へ歩いていった。
「お、お願い…助けて…!」怯えた女性が必死にしがみつくように声を上げる。
次の瞬間。
凌介は無言で酔っ払いの腕をねじ上げた。
「いってぇぇぇ!!」
男が悲鳴を上げ、もがいた瞬間、女はすぐさまその場を離れ、駆け去った。
だが、凌介の怒りはまだ収まらない。
「…チッ」
苛立ちを隠さぬまま、一発蹴りをお見舞いすると、酔っ払いは花壇に吹っ飛んだ。
手を汚す価値もない。
そう思い、背を向けて歩き出す。
しかし、今、彼なぜか頭の中には陽咲の顔が浮かんでいる。
さっきの女の子と比べると、陽咲の顔は絶対に男を引きつける魅力がある。
もし彼女がこんな目に遭ったら?
誰か助ける奴がいるのか?
あの純粋な顔が、他の男に汚されることを想像すると——
「……クソが」
凌介は無言で車に戻ると、突如、感情を抑えきれず車のタイヤを蹴り上げた。
陽咲は彼のものだ。他の男が触れることなど、断じて許さねぇ。
だが、何度電話をかけても、繋がることはなかった。
この女、本当に逃げやがった。
しかも、彼のガキを腹に入れたまま。
「……ふざけんな」
もし捕まえたら——
ただじゃ済まさねぇ。
しかし、彼は知らなかった。
この探し求めることが、なんと6ヶ月も続くことになるとは。
……
6ヶ月後
山々に椿の花が咲き誇る。
長い冬を越え、春の風が暖かく吹き抜ける、静かで素朴な土地。
その村の一軒家の中——
チェック柄のワンピースを着た女性が椅子から立ち上がる。
彼女の膨らんだお腹は、もはや隠しようがない。
痩せているため、お腹は普通より一回り小さかったが、それでも八ヶ月の妊娠腹だった。
陽咲は、凌介の目の届かない場所へ逃げ延びたのだ。
この地は都会とはかけ離れた世界。
交通も通信も不便、だが、人々は温かく、陽咲を歓迎してくれた。
彼女はこの村の学校で音楽の代用教師をしながら、静かに暮らしていた。
村人たちは、彼女を親しみを込めてこう呼んだ。
「宮園先生!」
「陽咲、そろそろ町に行って部屋を借りた方がいいぞ。あと1ヶ月で出産だろ?」大学時代の友人、山本樱子が心配そうに言う。
「うん、あと数日したら行くつもり。樱子、いつもありがとう」
「でもさ、お前、本当にシングルマザーになる覚悟はできてるのか?今後どうするつもりなんだ?」
「もう決めたの。ここで子どもと一緒に生きていく」
「バカ言うな!お前、大都会で育った女だろ、ここで子どもと暮らすなんて…」
だが、陽咲の決意は固かった。
貧しくても、苦しくても構わない。
この子のためなら、どんな犠牲も厭わない。
陽咲は、これからの人生を、子どものために捧げるつもりだった。