第11話 この坊っちゃん、ただ者じゃねぇ
凌介は息子を手放し、焦ったように息子の顔をじっと見つめ、それから額にキスをした。
ここに来るまで、心臓が止まりそうなくらいハラハラしていた。
「ボス、申し訳ありません!」渡边浩二は深く頭を下げた。
「俺のミスで坊っちゃんを見失い、危うく誘拐されるところでした…」
「おじさんのせいじゃないよ。僕が勝手に走って行っちゃったんだ」
ちっこいのに、しっかりしてる。
坊っちゃんはふと思い出したように手を伸ばし、「パパ!俺を助けてくれたの、あのキレイなお姉ちゃん!」と指差した。
凌介はその指の先を追い、細身のシルエットが小さな女の子の手を引きながら、曲がり角の向こうへ消えていくのを目にした。
おそらく、あの人も母親だろうな…
「誰にさらわれそうになった?」
「知らない。でもおじさんとはぐれたら、急に後ろから口をふさがれて、そのまま通路に引きずり込まれたんだ」
坊っちゃんはぷくっと頬を膨らませながら言った。
凌介の顔つきが険しくなった。
誰だ、俺の息子に手を出したヤツは?絶対に突き止めて、ただじゃ済まさねぇ。
「今すぐ調べろ」
凌介は低い声で渡边浩二に命じると、息子を抱え、博物館を後にした。
坊っちゃんはパパの逞しい腕の中にすっぽり収まりながら、ぎゅっと小さな手に紙を握りしめていた。
そこには、あのキレイなお姉ちゃんの番号が書かれている。
絶対、パパにお礼を言わせなきゃ!…それで、もしパパもお姉ちゃんを気に入ってくれるかも!そしたら、俺のママになってくれるかも…!
車の中で、凌介は改めて息子から詳しい話を聞き、念のため体のあちこちをチェックした。
怪我がないことを確認すると、ようやく少し安堵したようだ。
「パパ、これ!僕を助けてくれたお姉ちゃんの番号!お礼言うなら、今かけとくといいよ!」
坊っちゃんの話によると、その女性は誘拐犯を案内板でぶん殴って撃退し、さらに放送エリアまで連れて行ってくれたらしい。
…これは、相当な恩人だな。
凌介は紙をじっと見つめ、息子を車に残したまま、外へ出て電話をかけた。
ちょうどその頃、陽咲は百花と一緒に植物園の中にいた。
さっきまで充電が切れていたスマホが、ようやくモバイルバッテリーのおかげで復活したばかりだった。
知らない番号?
彼女は少し考えた後、通話ボタンを押した。「もしもし、どなたですか?」
その透き通った声は、耳に心地よく響く甘さがあった。
凌介の指が一瞬止まった。
まさか、息子の命の恩人がこんなにも魅力的な声の持ち主だったとは…。
「初めまして。悠晴の父です。息子を助けていただき、本当にありがとうございました」
その低く落ち着いた声を聞いた瞬間、陽咲は数秒、動きを止めた。
え…この声…まさか…
頭の中で、ある人物の姿が浮かぶ。
夜神…?いや、そんなはずない。あいつにこんな大きな息子がいるわけが…
しかも、この男性の声色には、明らかな感謝の念が込められている。
「いえ、お気になさらずに。でも、次からはお子さんから目を離さないでくださいね」陽咲はやんわりと釘を刺した。
「もしお時間があれば、お礼に食事をご一緒できませんか?」
「いえ、結構です。ただの通りすがりですから」陽咲は即座に断った。
恩返しされるのが、何より苦手だった。
そのとき、彼女はふと気づいた。
百花がいない!?
小百合が慌てて周囲を探し回っているのが見えた。
えっ…うそ…!?
「すみません、今ちょっと…子どもを探してるので…」
そう言い残し、陽咲は電話を切ると、すぐに百花を探しに駆け出した。
さっきの誘拐未遂のせいで、一秒たりとも目を離せない。
一方、その電話を切られた男は――数秒、呆然としていた。
……切られた?
自分が?女に?
初めてのことだった。
だが、それよりも気になったのは――さっきの声。
どこかで聞いたことがある。いや、忘れられない声だった。
四年前に消えた、あの女の声。
陽咲。
……いや、違う。陽咲のはずがない。
凌介は深く息を吐く。四年。あれから四年経った。
もう、忘れたはずだった。
……なのに、ふとした瞬間に似た背中を見かけると、似た声を耳にすると――心が、揺らぐ。
でも、凌介は決して彼女を探したりはしない。なぜなら、彼女には絶対に知られてはいけない秘密があるからだ。
陽咲はすぐに百花を見つけた。どうやら彼女は遊び場の穴に入っていたらしい。陽咲はビックリして、時計を見てみると、もうそろそろ遊びも終わりの時間だった。
「そろそろ帰ろっか」
百花と小百合を連れて、近くのカフェへ向かう。
豪邸。
凌介は、まだ怒りが収まらなかった。
車の中で、部下が監視映像を送ってくる。そこには、老いぼれの男がこっそり息子を廊下に引きずり込む様子が映っていた。
ただし、その後の映像はない。ちょうど工事中のエリアで、監視カメラの配線が切れていたらしい。
だが、犯人の情報さえあれば十分だ。警察の捜査で、すぐに身元が割れた。
六十五歳。
人身売買の常習犯。
つい最近、出所したばかりのクズ。
警察はすぐに動いた。
これで確定だ。ただの通りすがりの犯罪者。
凌介の敵とか、ライバル企業の仕業ではなかった。
だが、この事件を機に、凌介は息子の警備体制を見直す決意をした。
本当は息子と一緒に博物館に行く予定だったんだけど、急に片付けなきゃいけない事件が入っちゃって、だからボディガードに先に息子を連れてきてもらったんだ。
でも、まさか息子の服が他の子と被っちゃって、あっという間に四人のボディガードが小さなガキんちょを見失っちゃったんだ。
「もう二度と、こんなことは起こさせない」
そして犯人には――
一生、出てこられない牢屋を用意してやる。
陽咲は、百花を連れて浬のスタジオに戻った。
浬は陽咲が百花を抱えてるのを見て、ちょっと目を細めた。
俺と陽咲の娘も、こんな感じなのかな….
そもそも、陽咲とはもう三年以上も付き合ってるのに、いまだに「友達」止まりだ。
どれだけアプローチしても、どれだけロマンチックな演出をしても、陽咲は全く靡かない。
この貴重な部下を失いたくないから、仕方なく「友達でいる」って言ってるけど、でもちょっと安心したのは、陽咲が俺を受け入れないだけで、他の男の追求には応じてないってことだ。
……つまり、まだチャンスはあるってことだ。
「おじちゃん!」
百花が嬉しそうに抱きついてくる。浬は彼女を抱きしめながら、陽咲に微笑む。
「ランチ、一緒にどう?」
「うん」
陽咲は百花のことがとても好きなようだった。浬はその様子を見て、思わず陽咲に言った。
「……陽咲って、子供好きなんだな。自分の子供、欲しくない?」