第2話 あんたの子供を産む資格なんてない
病院を出ると、陽咲は無意識にお腹を軽く押さえた。
なんで、この子は彼女のお腹に宿ったの?
もっと幸せになれる親のところに行けばよかったのに。
凌介が彼女にこんな仕打ちをするのは、彼女の母親のせいだ。
父は絶対に母の死について口を開かなかった。
けど、10歳のとき——義母が冷笑しながら言った。
「あんだの母親はね、金持ちの男と山の中でよろしくやってたのよ。そのまま車ごと崖から転がり落ちて、仲良く心中したってワケ」
そして、その金持ちの男ってのが、凌介の父親だった。
つまり、彼女の母親は凌介の家庭をぶち壊した不倫女ってことになる。
父は浮気した母を憎んで、不倫相手を堂々と家に迎え入れた。
この家で、彼女の居場所なんて、もうとっくになかった。
父は彼女の顔を見るたびに、母の裏切りを思い出すんだろう。
まともに目すら合わせてくれない。
この世界で、彼女はまるで孤児みたいに独りぼっちだった。
病院から戻り、使用人が用意したランチを食べたあと、知らぬ間に寝落ちしていた。
気づけば、すでに夜——
「えっ、もう8時半!?ヤバ…」
慌ててリビングに降りると、いつの間にか凌介が帰ってきていた。
ソファに無造作に腰掛け、色気と危険をまとったその姿は、まさに猛獣。
陽咲は、一つ賢くなることにした。
話し合いをするために、まずは機嫌を取っておこう。
彼のためにお茶を淹れ、そっと差し出す。
「…お疲れ様、あなた。お茶、どうぞ」
凌介はじろりと陽咲を見上げ、すぐに見透かしたように言った。
「で、何の用だ?」
コイツ、エスパーか?
心の中がまるっと読まれてる気がするんだけど。
陽咲はぎゅっと唇を噛み、彼の隣にそっと座った。
「その…子供、欲しくない?」
「は?」
「だって、この家、広すぎて寂しくない?子供がいたら、もっと賑やかになるかなって…」
凌介は一瞬、目を細めた後、クスッと笑った。
「お前、俺の子供を産む資格があるとでも?」
「で、でも…万が一、できちゃったら…?」陽咲は唇を噛んで、彼の目を直視できずに言った。
「即、堕ろせ」
彼は一切の迷いもなく、そう言い放った。
心臓をギュッと鷲掴みにされたような感覚。
数秒後。
彼の目が鋭く細まり、陽咲をロックオンした。
「あったの?」
「いえいえ」陽咲は首をブンブン振る。
「ただ、ちょっと気になっただけ… ひとりでこの家にいると、寂しいから…」
凌介は、ふぅん…と鼻を鳴らした。
「まぁ、いい。お前にそんな度胸があるわけないしな」
テーブルの資料を適当に置くと、バーの方へ向かい、ウイスキーのボトルを取り出した。
グラスに半分ほど注ぎ、陽咲に差し出す。
「飲め」
「えっ…私、お酒ダメ…」
「昨日、お前は俺を満足させられなかった」
冷たい声が突き刺さる。
「次も期待外れだったら、どうなるか、分かるよな?」
陽咲は、すぐにグラスを取った。
ちびちびと飲み始めるが、四口目で喉が焼けるように痛み、ゴホッと咳き込む。
「全部飲め」
凌介は、一切の容赦もなく命令する。
「もう…無理…」陽咲は首を横に振った。
すると——
凌介はニヤリと笑い、陽咲の腕をグッと引き寄せた。
「なら、俺が飲ませてやる」
ウイスキーを一口含み、そのまま唇を重ね……
彼の舌が、熱い液体とともに流れ込んできた。
……
その夜も、眠れぬ夜となった。
翌朝、陽咲は腹がズキズキと痛み、また病院に行かざるを得なかった。
昨日と同じ医者が、ジト目で陽咲を見つめる。
「昨日あれだけ言ったよな?お前、もう忘れたのか?子どもより大事なもんなんてあるか?あんだ、本当にヤバいんだよ、わかってんの?」
「先生…赤ちゃん、大丈夫ですか?」
「少し出血してるが、今のところは持ちこたえてる。でも、もっと気をつけなきゃな」
陽咲は部屋を出たものの、どうしていいかわからず、病院内をフラフラと歩き回っていた。
そんな時、診察室から出てきた看護師がふと彼女を見て声をかけた。
「次、あなた様ですか?」
「え?」
「手術ですよ!」
「手術?…何の?」
「掻爬手術ですけど」
陽咲の顔から一気に血の気が引いた。「私じゃない…手術なんて、しない…!」
慌てて身を引いた後、陽咲はエレベーターに乗り込んだ。
隣には、生後三ヶ月ほどの赤ちゃんを抱いた夫婦。
ぷくぷくのほっぺに、キラキラの笑顔。天使みたいに愛らしい。
陽咲は無意識にお腹に手を当てた。
もし…自分の赤ちゃんが生まれたら、あんなふうに可愛いのだろうか?
医者の言葉が、頭の中で警報のように鳴り響く。
今夜も凌介が続けたら…本当に、この子はダメになるかもしれない。
陽咲はぼんやりしたまま、別荘へと戻った。
まだリビングに入る前、急に目の前がぐるりと回り、そのまま玄関先に崩れ落ちた。
手に持っていたエコー写真の入った袋が、足元に転がる。
夕方、黒いスポーツカーが静かにゲートをくぐった。
凌介が戻ってきた。
車が玄関前で停まると、彼は地面に倒れている女の姿に目を奪われ、即座に車を降りた。
近づくと、倒れた陽咲の横に落ちている病院のビニール袋が目に入る。
しゃがみこみ、それを拾い上げ、中身を確認すると――
診察券と、エコー写真。
凌介の眉がグッと寄る。
ここのところの女の態度、子どもに関する微妙な探り。
クソッ…こいつ、妊娠してんのか?
薬は飲ませてたはずだろ。
まさか…ガキを盾に、俺の許しを得ようとしてるのか?
男の顔が一瞬にして真っ黒になる。
こいつ…俺の血筋を利用しようってのか。
ふざけんな…許せるわけねぇだろ。
倒れた陽咲が、かすかに目を開ける。
ぼんやりとした視界の先――
冷え切った氷のような目が、じっと自分を見下ろしていた。
凌介…なんで、こんなタイミングで帰ってきたの?
その手に握られたエコー写真を見た瞬間、陽咲の顔から血の気が引いた。
一気に恐怖がこみ上げ、逃げ出そうとする。
だが男は、まるで影のようにのしかかる。
「どこ行くつもりだ?」
陽咲の背筋が凍りついた。
この男には、魂の奥底からの恐怖を感じていた。
彼女は無意識にお腹を庇い、絶望的な表情を浮かべる。
凌介は長い足を踏み出し、陽咲の目の前に立つ。
鋭い視線が顔をなぞり、そのままスルリと腹部へ。
数秒間、沈黙。
その間、陽咲は息が止まりそうになった。
震える手をぎゅっと握りしめ、まるで罪人のように目を伏せる。
この子の命は、彼女が決めることではなかった。
ただ、突然与えられた奇跡だった。
誰よりも、自分自身が戸惑っている。
「いつからだ?」冷えた声が降ってくる。
「…二日前…知ったばかり…」
「俺に言わなかったのは?」
凌介の目が、狂気の光を宿す。
「わ…」
「俺が堕ろすと思ったか?」
嘲笑混じりの声。
そのまま、さらに冷えた言葉が落ちる。
「お前…俺が、そのガキを産ませるとでも思ったのか?」