第5話 彼に連れ去られる
車のドアが開く音がした瞬間、陽咲の笑顔は消えた。
代わりに現れたのは、パニックと恐怖。
まるで幽霊でも見たかのような顔をして、体がビクンと震え、危うく尻もちをつきそうになった。
「わっ、大丈夫!?」樱子は驚きつつも、慌てて彼女を支えた。
そして、ある男の腕も一瞬、彼女に伸びかけたが、彼女が無事だと分かると、ギュッと拳を握り締め、引っ込めた。
陽咲は荒い息をつきながら、その顔を見上げる。
悪夢よりも恐ろしい、この顔。
地獄を歩く悪魔のような男。
なんで——なんでここに?
どうやって彼女を見つけたの?
凌介。
世界で一番、彼女が恐れている人。
「逃げなきゃ…」陽咲は樱子の手を引いた。
けれど、お腹が大きすぎる。
樱子もまた、突然現れたこの男に気圧されていた。
男はまるで神のように整った顔立ちをしていた。
だが、その眼差しは氷のように冷たく、背筋が凍るほどの威圧感を放っている。
「お前…随分と手間をかけさせてくれたな」
低く唸るような声が響く。
陽咲は本能的にお腹をかばった。まるで彼が次の瞬間にもこの子を奪い取ろうとしているかのように。
「来ないで…!私は、絶対にあんたなんかについて行かない…!」
目に涙が滲む。分かっている、逃げられないって。
だが、凌介は結局こっちに来ちまった。長い腕を伸ばし、彼女の手首を掴んだ。
細すぎる。
妊娠してても、こんなにガリガリなのかよ…と気づいた瞬間、胸の奥がギュッと締めつけられた。
ここで、まともな食事もできていないのか?
「ちょ、あんた!もう8ヶ月だぞ、そんな乱暴にしたら、お腹の赤ちゃんに悪いって!」樱子は思わず声を上げる。
しかし、凌介は冷たい視線を彼に向けるだけだった。
「なあ陽咲、この人誰?」樱子は不安そうに小声で尋ねる。
「…この子のお父さん」陽咲は蒼白な顔で、呟くように答えた。
誰もが彼女の子供が生きることを妨げないが、子供の父親だけがその命の道を絶とうとしている。
「さあ、帰る。今すぐに」凌介は支配者のように命令する。
今、陽咲は崖っぷちに立たされたような気分だった。
次の瞬間には、真っ逆さまに奈落へ落ちる。
けれど、だからこそ、彼女の心には計り知れない勇気が湧き上がってきた。落ちることを知っているからこそ、生きるために必死で足掻こうとするのだ。
「…帰るのはいい。でも、赤ちゃんを無事に産ませて」彼女は真っ直ぐに凌介を見た。
強い眼差しだった。
「お前に、俺と交渉する資格があるとでも?」凌介は冷笑する。
まだ、こいつに対する怒りの帳尻すら合わせていないというのに。
陽咲は唇を噛んだ。
そうだ、資格なんてない。
この状況を作ったのは、全部、自分のせい。
でも——
赤ちゃんに罪はない!
凌介の目が冷たく光る。
この六ヶ月間、何度も眠れぬ夜を過ごした。
彼女の行方を探し続け、最悪の可能性に怯えながら。
だが、そんな気持ちすら、怒りの奥底に封じ込めていた。
「自分の立場を忘れんなよ」彼は低く嘲笑する。
陽咲の心臓が締めつけられる。
逃げても逃げても、この男の支配からは抜け出せないのか?
その時。
「…っ!」
お腹の中で、赤ちゃんが激しく動いた。
不安を感じ取ったのか、痛いくらいに蹴ってくる。
「っ…」
陽咲は思わず腰を折る。
「陽咲!?大丈夫!?」樱子が慌てて支える。
「大丈夫…赤ちゃんが動いただけ…」
凌介はここでの条件を見て、すぐにでも彼女を連れて帰らなきゃいけないと思った。
途中で何か起きたら、二人とも命が危ないからな。
凌介の脳裏には、最悪の可能性が浮かんでいた。
もし、ここで彼女に何かあれば?
赤ん坊まで死んだら?
そんな事は——許されない。
とにかく、彼女を連れて行くことだけが大事だ。
「…お前は、今すぐ俺と帰る」凌介は陽咲の腕をガシッと掴み、強引に言い放った。
この状況では、もはや選択肢はない。
凌介は、迷いなく彼女を連れ去るつもりだった。
陽咲はもう、逃げられないと悟っていた。
「……わかった、行く」
そして、樱子の方を向き、かすかに微笑んだ。「樱子、今まで本当にありがとう」
「えっ、でも荷物は?赤ちゃんの服と……」
陽咲の顔が一瞬青ざめ、次の瞬間、涙がボロボロとこぼれ落ちた。「……もう、いらない」
そう言うと、振り向きもせずにボディーガードが開けた車のドアへ向かい、黙って乗り込んだ。
凌介もすぐに後に続く。
陽咲は未練を押し殺しながら樱子に言った。「樱子、本当にお世話になった。いつか、恩返しするから」
「陽咲!自分と赤ちゃんのこと、大事にしろよ!」樱子は必死に手を振った。
数分後、黒塗りのSUVが4台、村の出口から疾走し、田園風景の向こうへと消えていった。
……
車内。
陽咲は目を閉じていた。
突然、車が舗装されていない道の段差に乗り上げ、車体が大きく揺れた。
「——っ!」
驚いた陽咲は、とっさにお腹を抱えた。
支えがなく、バランスを崩した身体がそのまま凌介の方へ倒れ込む。
凌介の腕がすかさず伸び、彼女をしっかりと抱きとめた。
だが、
陽咲はすぐに我に返り、慌てて凌介の腕から抜け出して、距離を取った。
彼の手が、彼の存在が、怖かった。
赤ちゃんに何かされるんじゃないかと、無意識に警戒していた。
……
飛行機内
飛行機が安定飛行に入った頃、陽咲は昨晩、赤ちゃんの動きで一睡もできなかった疲れが一気に押し寄せた。
目の前に凌介が座っているのも忘れ、ソファの上に体を横たえ、すぐに眠りに落ちた。
眠る陽咲の手は、自然とお腹をかばうように添えられている。
凌介は窓の外を見つめていたが、ふと視線をソファの方へ移した。
そして、目を細める。
腹が、動いている。
服の下から、ポコッと何かが押し出され、またすぐに引っ込む。
凌介の黒い瞳が一瞬揺らいだ。
彼の中で言葉にならない感情が渦巻く。
……この中にいるのが、自分の子供?
どうするかはまだ決めていない。
深く息を吐き、もう一度窓の外を見た、頭の中がぐちゃぐちゃになっていた。
そして、CAを呼び、ブランケットを2枚手に取ると、陽咲の体の上に静かに掛けた。
風邪をひくと面倒だからな。
……
都市へ。
2時間後、飛行機は着陸。
CAが優しく声をかけると、陽咲はゆっくり目を開けた。
視界に入ったのは、足を組んで冷然と座る凌介。
彼女は条件反射で姿勢を正した。
「……寝ちゃってた……」
呟きながら寝ていた腕を揉む。
ちょうどその時、お腹の赤ちゃんがぐるっと身を翻し、ポンッと蹴ってきた。
大丈夫だよ、ママはここにいるからね。
陽咲はその小さな動きに、完全な安心を覚えた。
赤ちゃんが元気に動いているなら、それは健康だってことだ。
以前、医者がうっかり言ってしまったことで、この子が男の子だと分かっていた。
……
飛行機から降りると、凌介の車が直接ターミナル前まで迎えに来ていた。
村での半年間を経て、大都会の喧騒に戻った陽咲は、一瞬、現実感を失ったような気がした。
午後4時過ぎに、凌介の豪邸へと到着。
車から降りると、陽咲は腰に手を当て、ため息をついた。
長時間の移動で、身体に負担がかかっていた。
凌介は数歩先を歩き、ふと振り返ると、冷笑を浮かべた。
「自業自得」
陽咲は唇を噛んだ。
この人は、やっぱり赤ちゃんのことなんてどうでもいいんだ。
それでも、今は話をしなければならない。
彼女は勇気を振り絞り、静かに言った。「話がしたいの……お願い」
「興味ない」
凌介は冷たく言い捨てると、すぐに踵を返し、迷いなく屋敷の中へ入っていった。