第7話 バーでの再会
雨宮夏帆は店の入り口に立ち、ガラス戸に映る自分の痩せた姿を見つめた。
かつての若々しくて元気いっぱいの飯田夏帆はどこにもいなかった。
今残っているのは、生気を失った抜け殻のような身体だけ。
尊厳も、健康も、そしてまともな身分さえも、すべて失ってしまった。
いっそ自暴自棄になる?
そんなの悔しすぎる!
雨宮夏帆は、奮い立つように仕事を探し続けた。
ようやく見つけたのは、ウェイトレスを募集しているバーだった。
給料は高くないが、食事と宿泊が提供される。
バーのような場所なら、薄暗い照明で自分の不健康な様子も目立たない。
それに、店は人手不足だったため、すぐに採用された。
このチャンスを無駄にはできない。
雨宮夏帆は制服に着替え、仕事を始めた。
バーの片隅。
「ねぇ咲子、あのウェイトレス、ちょっと飯田夏帆に似てない?」
そう言ったのは、飯田咲子の親友、上原明美だった。
「は? 夏帆がウェイトレス?」
咲子は、すぐには信じられなかった。
「ありえないでしょ? だって今日出所したばかりなのに、もう働いてるなんて」
しかし、明美の視線の先を追うと、彼女は眉をひそめた。
「…本当にあの女だ。ふーん、すごいじゃん。監獄から出たばかりで、いきなり自力で生きていこうとするなんて」
明美がニヤリと笑い、「ちょっと、応援しに行こうか?」と悪意たっぷりに言った。
「待って」
咲子は意味ありげに目を細め、明美の耳元で何かを囁いた。
仕事中の雨宮夏帆。
彼女は黙々と仕事をこなしていた。
すると、店長が近づいてきて言った。
「808号室の客人が酒をこぼしたから、掃除に行ってくれ」
「分かりました」
夏帆は急いで個室へ向かった。
ドアを開けると、中には上原明美が一人だけ。
その瞬間、夏帆は彼女が咲子の親友であることを思い出した。
四年前。
飯田咲子が高藤家の令嬢にネックレスを盗んだところを見つかったとき、「目撃者」として証言したのが、上原明美だった。
監視カメラの死角で起きた事件だから、その証言だけで、夏帆は「泥棒」の汚名を着せられた。
仇と対峙すると、自然と血が煮えたぎる。
だが、今は仕事中。
夏帆は感情を押し殺し、掃除を始めた。
その時。
ガシャンッ!
明美がわざとグラスを倒し、酒をこぼした。
「ちょっと! 何やってんの? ドジすぎない? クレーム入れちゃおうかな?」
「……!」
「クレーム」と聞いた瞬間、夏帆の手がギュッとタオルを握りしめた。
その時、個室のトイレのドアが開き、飯田咲子が出てきた。
夏帆に気づくと、驚いたように駆け寄った。
「お姉様? なんでこんなところで働いてるのですか!? こんなの、お兄ちゃんやママが知ったら、どれだけ悲しむか…!」
「えっ、この不器用なウェイトレスが、咲子の…お姉さん?」
明美も、わざとらしく驚いて見せた。
二人の茶番を前に、夏帆は無表情のまま言った。
「私はただ、きちんと働きたいだけ。邪魔しないでくれる?」
「でも、こんな場末のバーなんかで働かなくても…家に帰ればいいじゃん。お金がないなら、家族に頼ればいいのに」
咲子はそう言いながら、夏帆の手から汚れたタオルを取ろうとした。
しかし、夏帆は離さなかった。
——これは偶然なのか、それとも仕組まれたことなのか。
だが今は、トラブルを避けるのが最優先だった。
彼女は無言で、ただ机を拭き続けた。
「お姉様、私が手伝います!」
咲子がそう言って、掃除を手伝おうとした瞬間——。
「痛っ!」
彼女の指先に、割れたガラスの破片が刺さった。
瞬く間に、赤い血が滴った。
「何してるの!?」
思わず、夏帆は声を荒げた。
すると——。
ぽろ、ぽろ、ぽろ…
咲子の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「お姉様が傷ついたまま働いてるのを見たら、つらくて…だから、せめて手伝いたくて…」
彼女は嗚咽しながら言った。
その横で、明美はこっそりスマホを構え、録画を始めていた。
「…いらないから。邪魔しないで」
夏帆は冷たく言い放った。
「…お姉様、私のこと、恨んでます?」
「…?」
「私ね…あのネックレスを見たとき、どうしても欲しくなっちゃったの。つい盗んでしまって…お姉様が捕まったのは、全部私のせいです…」
「お姉様が恨むのも当然。ですから…怒っていいですよ。殴ってもいいし、罵ってもいいです」
「…殴ってもいいし、罵ってもいい?」
夏帆は嘲笑した。
「私は、地獄を生き延びたのよ。あなたの罪悪感を軽くするために戻ってきたわけじゃない」
鋭い眼差しで咲子を睨みつけた。
彼女の心は、疲れ果てていた。
体もまた、壊れかけていた。
不自由な足はアリにかじられたように痛く、彼女はそれをずっと我慢していた。
部屋の中の薄明かりは、まるで魂のない人形を照らすように彼女の上にこぼれ、あまりに空虚で悲しかった。
飯田咲子は彼女の生気のない顔を見て、ほのかな恐怖を覚えた。
この女はもう何の脅威にもならないはず、それなのに、なんで彼女は怖く感じるの?
雨宮夏帆は窓の外を見ようと目を向けると、吹き込む風で前髪が乱れていた。
「…咲子。あなたが飯田家の本当の娘」
「私はただの使用人の娘だった。それなのに、すり替えられて…」
「あの家では、あなたは勉強もさせてもらえず、お金と引き換えに40歳の男と結婚させようとした」
「あの時のあなたは、苦しくてどうしようもなかったに違いない、私は心の底から同情した」
「だから、あなたが飯田家に戻ってきたとき、私は何でも差し出すつもりだった。飯田家を離れても、あなたと平和に暮らしたいと思っていた!」
「あなたを妹として愛そうとした。家族として、大切にしようとした。両親や兄からの愛情だけじゃなく、姉からの愛情も与えようとした」
「お母さんに婚約を返せと言われても、いやだったけれど、それでも私は損切りをして、木村雅也とわざと距離を置いた」
「私は誠心誠意あなたに接した。それなのに、あなたは私をどう接したの?」
咲子は口を押さえ、肩を震わせながら泣いた。
まるで、自分が「被害者」かのように。
雨宮夏帆は顔をしかめて吐き捨てた。
「泣かないでくれる? 私が悪者みたいじゃない!」
「飯田家に戻ってきたばかりの頃も、あなたはそうだった。いきなり泣き出して、なんの説明もしない、私があなたをいじめてるって、飯田孝太に何度も思わせて!」
飯田咲子は何も言わず、ひたすら泣いていた。
夏帆は深い無力感を感じた。
まるで「彼女が話し出すと、咲子が泣く」のような遊びをしているみたいだ。
この状況が飯田孝太に見られたら、また誤解されて叱られるに違いない。
「お姉様は悪くないです。全部私のせいです。ごめんなさい。あの頃の私は無知でしたから。わざとお姉様を刑務所に行かせるつもりはなかったんです…」
飯田咲子は泣きながら深々と頭を下げた。
「そう? 意図的だった気もするけどね」
雨宮夏帆は顔をこわばらせ、その視線には紛れもない真剣さが宿っていた。