第3話 四年間の苦しみ
雨宮夏帆の胸は痛んだ。
入り混じった感情が渦巻いていた。
悔しさか?それとも未練?
もうどうでもよかった。
部屋の前で木村雅也が菓子箱を差し出した。
「食事を手配した。空腹ならまずこれを食べなさい」
雨宮夏帆の視線が菓子箱に止まった。
先程病院で咲子がくれたものと全く同じものだった。
「こういうのは苦手です。咲子さんに渡してください」
彼女は目を伏せ、淡々と言った。
偽りの親切など要らない。
なぜなら――
高藤家令嬢の誕生日パーティで首飾り盗難の濡れ衣を着せられた日、
木村雅也が咲子を守りながら「お前が盗んだ」と憎悪の眼差しで言い放った光景を、
決して忘れられないからだ。
父親も母親も兄も、最愛の婚約者までもが、
全員咲子を擁護し、彼女に罪を押し付けた。
飯田孝太の言う通りかもしれない。
18年間咲子の代わりにお嬢様として育てられたのだから、
彼女が文句を言う資格などないのかもしれない。
四年間の監獄暮らしがその代償と見ればいい
それでも、彼女は理解できなかった。
濡れ衣を着せるのに理由などいらないが、
最も大切だと思っていた人々が次々と彼女を奈落へ突き落とした。
あまりに理不尽だった
木村雅也が菓子箱を持ったまま口を開こうとした時、突然電話が鳴り急ぎ去って行った。
雨宮夏帆は部屋でシャワーを浴びた。
体中に刻まれた無数の傷痕を見つめ、彼女の瞳が熱を帯びた。
これら全てが四年間の牢獄生活が残した恥辱の痕だ。
仮に出所しても、それが焼印のように彼女の肉体に刻まれ、一生消えることはないだろう。
髪を乾かすと、少しだけ人間らしい顔になった。
新しい服がないため、ボロボロの薄手のセーターを再び着込み、凍傷と水膨れを隠す手袋をはめた。
入院棟。
雨宮夏帆は看護師に尋ねながら手術室へ向かった。
既に飯田家の面々が手術室の前で焦燥感に駆られていた。
本来病室にいたおばあちゃんが急変し、緊急手術に至ったのだ。
赤く光る手術中の表示を見上げ、彼女の長い睫毛が震えた。
出所後はじめて、彼女の胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
世界でたった一人の味方であるおばあちゃんに万が一があれば、と。
彼女の到着に気付いた飯田咲子が手首の翡翠のブレスレットを誇示した。
「お姉様、これはお祖母様が手術室に入る前にあなたに残したものなんです。でも私、どうしても気に入っちゃって...」
雨宮夏帆は翡翠の輝きを一瞥し、無言を貫いた。
彼女は思わず四年前のことを思い出してきた。
咲子はいつもこうして彼女のものを奪おうとしていた。
部屋も、服もバッグも靴も、最愛の猫までも奪い、遊び殺した。
当時の彼女は怒りに震えたものだ。
今の彼女はもうどうでも良かった。
飯田家の一草一木、一石一瓦は全て真実の令嬢である咲子のもの。
彼女は偽物の令嬢に過ぎない。
18年間他人の人生を生きてきただけの、部外者なのだ。
飯田咲子は悲しげな表情を浮かべた。
「でも、お姉様が嫌なら返します」
そんな可憐な咲子を見て、飯田孝太が怒り出し、割って入り叱責した。
「飯田夏帆!たかがブレスレット一つ、咲子に譲れないのか?」
「欲しけりゃ後で十個でも買ってやるよ!」
雨宮夏帆は何も言わず、静かに椅子に腰を下ろした。
彼女は何も語らず、何もしていなかったのに。
ただそこに立っていただけで、こんなことが起きるんだ。
もしかすると、彼女の存在そのものが罪なのかもしれない。
「お兄ちゃん、私本当にこれが好きなのに...どうして私じゃなくてお姉様に残すの?お祖母様は私が嫌いだから?」
咲子の長い睫毛に涙が光り、孝太を見上げた。
孝太は突然狂暴化したように夏帆を引きずり上げ、怒鳴りつけた。
「たかがブレスレットで意地を張るなんて!度量が狭すぎるんだろ!」
「その不機嫌そうな顔は何だ?おばあちゃんを盾にしているつもりか!」
「私は...」
夏帆が反論する間もなく、孝太に手術室前へ引きずられていった。
「おばあちゃんが生死の境なのに、ブレスレットのことで妹を泣かせるなんて!」
「少しは空気を読め!」
「おばあちゃんを殺す気か!」
障害のある足首を無理やり引っ張られ、夏帆は痛みに喘いだ。
バランスを崩し、床に叩きつけられた。
トイレから戻った飯田美沙がこの光景を目撃し、駆け寄って夏帆を起こしながら孝太を叱った。
「また妹をいじめて!」
孝太は怒りで歯を噛み締めた。
「母さん、こいつが咲子を苛めてるんです!手術中のおばあちゃんのため思ってるなら、こんなことするべきじゃない!」
「おばあちゃんがこの状況を見たら、また発作を起こすかもしれないというのに!」
飯田美沙は涙ぐむ咲子を見て事情を聞き、夏帆を責めた。
「夏帆、ママを恨まないで。妹と争うべきじゃなかったわ」
「おばあさんはこの二年で急速に弱ってるの。ブレスレットは咲子に譲りなさい」
「後で新しいのを買ってあげるから」
雨宮夏帆は無表情で答えた。
「最初から拒んだ覚えはありませんけど?」
飯田美沙は眉をひそめた。
「じゃあどうして孝太が怒り、咲子が泣いているの?」
「いいわ、どちらが正しいかは置いといて、後で新しいのを買ってあげる」
雨宮夏帆は頷いた。
どうせ何を言っても無駄。
孝太に引きずられた時の衝撃で、足は立つことすら困難な状態。
今日出所してから何も口にしていない。
憔悴しきった体は限界を超えていた。
痩せ細り、土気色の顔は末期患者のようだった。
突然視界が暗転し、激しい眩暈に襲われて、彼女は床に崩れ落ちた。
孝太は嫌味たっぷりに言った。
「ブレスレットを諦めたら今度は弱りぶりか?」
「早く起きろ!この死人面でおばあちゃんを不安がらせたら、ただでは済まないぞ!」
雨宮夏帆の首がぐらり。
完全に意識を失った。
どれだけ時間が経ったのかは分からない。
病室で目を覚ますと、飯田美沙の啜り泣きが響いていた。
患者用のパジャマに着替えられている。
どうやら体中の傷痕を見られてしまったようね...
飯田美沙が震える手で彼女の手を握りしめた。
「夏帆...この凍傷と水膨れは何?」
「体中の傷跡...数え切れないわ」
「医師の話では棍棒、鞭、タバコの火などで...」
飯田孝太が美沙の肩を叩き、重苦しく慰めた。
「母さん...」
彼は夏帆の受けた苦痛を想像できず、後悔の念に胸が締め付けられ、顔を直視できなかった。
「ごめん」の一言さえ、喉に刺さったまま吐き出せなかった。
飯田美沙は涙を拭った。
「ママはただの労働刑だと思ってた...」
「こんなに酷い目に遭うなんて...」
「一体誰が私の夏帆を...」
となりの飯田咲子も目を潤んだ。
「お姉様の傷…私、心苦しいですわ。ねえ、教えて、お姉様は一体監獄の中でどんな目に遭ったのですか?」
雨宮夏帆は芝居がかった咲子を見上げた。
心苦しい?あなたが?
演技だけで真心など微塵もない。
怒りの炎が燃え上がり、彼女はゆっくりと語り始めた。
「どんな目に遭ったのか、教えてあげるよ」
「毎日のように虐められた」
「高藤家令嬢の首飾りを盗んだ罪人だからね」
「凍傷も水膨れも、髪を引っ張られ蹴られるのも、タバコの火を押し付けられるのも日常茶飯事」
「左耳には楊枝を突き刺され、鼓膜が破れて聴力はほぼ失った」
「釘付きの鉄パイプで腿に無数の穴を開けられた」
「水牢、独房、電気ショック...全部味わった」
飯田咲子は恐怖に目を見開き、涙をぽろぽろ落としながら孝太の胸に崩れ込んだ。
「あなたが泣く必要ある?四年間監獄に入ったのは私よ」
悲しんでいるように泣いている飯田家の者の姿を見て、夏帆は感動など微塵も感じなかった。