第6話 補償
飯田孝太は言葉を失った。
木村雅也の言葉は、一言一句、紛れもない真実だった。
四年前——
彼は飯田家の利益を守るため、夏帆が飯田家に影響を与えないようにするために、わざわざ高藤家に宣言したのだ。
夏帆はもう飯田家とは何の関係もない。彼女がどうなろうと、彼らは一切関知しない、と。
飯田家の人間という庇護を失った雨宮夏帆の安全は、保証されていないのと同然だった。
彼女が受けた傷が自分のせいだと思うと、飯田孝太の胸は強く締め付けられ、息が詰まるような感覚に襲われた。
木村雅也は彼の肩を軽く叩き、こう言った。
「夏帆が生きて帰ってこられただけでも運が良かったと思え。身内びいきはほどほどにして、どうやって償うか考えたらどうだ?」
そう言い終えると、彼は深いため息をついた。
彼自身もまた加害者の一人だった。補償について語る資格などない。
彼の視線は突然暗くなり、独り言のように呟いた。
「今日一日中、彼女は俺のことを『木村さん』と呼んでいた」
飯田孝太の黒い瞳にも、わずかな傷ついた色が滲み出る。
「俺のこともずっと『飯田さん』と呼んでいた」
二人はまるで同じ痛みを抱える者同士のように、深くため息をついた。
しかし次の瞬間、互いに鋭い視線を交わし、目と目を見合わせた。
どちらも相手の存在が気に食わない。
飯田孝太は険しい顔で、鋭く言い放った。
「どう補償するかは俺の勝手だ。お前は飯田夏帆に近づくな!」
「お前こそ、咲子を傷つけたら許さないぞ。木村家の跡取りだからって、俺が怖がるとでも思ってるのか?」
「ふんっ…」
木村雅也は嘲笑し、口元に冷たい弧を描いた。
そして、振り返ることなく歩き去った。
まるで彼の言葉など全く聞きたくないのようだった。
飯田孝太は、今にも爆発しそうだった。
子供の頃から木村雅也とは一緒に育ち、彼の性格を知り尽くしている。
一度決めたことや執着した人には、決して簡単に諦めることはない。
どうする?
彼を阻止できない以上、夏帆をしっかり見張るしかない。
彼女を決して「第三者」にはさせない!
ホテルを出たところで、飯田孝太は突然、木村雅也を追いかけて道を塞いだ。
先ほどよりも、少し穏やかな口調で言った。
「お前、確か幼馴染に大谷洋一ってやつがいたよな? 国際的に有名な医学教授で、かなり腕がいいと聞いたが」
木村雅也は眉をひそめる。
「…ああ、それがどうした?」
「彼に連絡を取れないか? 俺は夏帆の傷を治療してもらいたい」
木村雅也は首を横に振った。
「難しいと思うな。もう何年も連絡を取ってないし」
「それに、彼は海外にいる。俺のことなんて相手にする暇もないだろう。でも、他に知り合いの専門医なら紹介できるが?」
「…いや、いい。他の医者を探す」
飯田孝太が遠ざかっていくのを見届けながら、木村雅也は意味深な笑みを浮かべた。
そして車に乗ると、すぐに電話をかけた。
「おい、クソ野郎。1時間前から電話してたのに、なんで出ねえんだ? 今どこにいる?」
「京市だ。さっきまで手術してたんだよ。なんだ、雅也? 俺に何か用か?」
木村雅也は、相手の疲れた口調を無視し、命令するように言った。
「今すぐ、カモメホテルの8302号室へ行ってくれ。ある女の子の診察を頼みたい」
「…その子はそんなに重要な人物なのか?」
「俺の元婚約者だ。数年前に罪を犯して服役していた。身体に傷が多いから診てもらいたい」
「……」
電話の向こうで、沈黙が続いた。
そして、大谷洋一の呆れた声が聞こえた。
「おいおい、雅也。俺は世界的な医学教授だぞ? 俺の診察を受けるために、大勢のお偉いさん方が何ヶ月も順番待ちしてるんだぞ?」
「それを今すぐ、お前の元婚約者のために駆けつけろって?」
「行かないのか? じゃあ、お前の研究所の次の資金提供、ちょっと遅らせるか。じゃあな」
「…待て待て待て! 行くよ! お前とはガキの頃からの付き合いだしな! 幼馴染の頼みなら、死んでも断れねぇ!」
一方、雨宮夏帆はホテルで休んでいた。
ノックの音がして、扉を開けると、一人の若い女性が立っていた。
「こんにちは。飯田夏帆さんですね? 飯田孝太様があなたのために雇った付き添いの介護士です。里中真菜と申します」
「…飯田孝太が?」
里中真菜は微笑みながら頷き、そのまま部屋に入ってきた。
雨宮夏帆は、その場で鼻で笑った。
なんて滑稽な話だろう。
散々傷つけておいて、今さら恩を売るつもり?
たったこれだけで、四年間の牢獄の苦しみが帳消しになるとでも?
そんな「偽善的な償い」なんて、まったくいらない。
彼女が飯田家で唯一大切に思っているのは、おばあちゃんただ一人。
飯田家を憎んでいるから、その家が雇った介護士まで嫌悪してしまう。
雨宮夏帆はドアの外を指差し、今にも追い出そうとした。
だが、その時、白衣を着た男が新たに現れた。
「初めまして、雅也の友人の大谷洋一です。皮膚科の専門医をしています。彼に頼まれて、あなたの診察をしに来ました」
「……」
雨宮夏帆は沈黙した。
飯田孝太は介護士を、木村雅也は医者を。
次々と「甘い飴玉」を与えようとしてきた。
彼らは本当に罪の償いをしたいのか?
それとも、ただ自分たちの負い目を誤魔化したいだけなのか?
悪いけど、そんな飴は食べない。死んでも食べない!
介護士が大谷洋一を見て、驚きの声を上げた。
「あのう…もしかして、あの有名な医学教授の大谷洋一先生ですか!? まさか、こんなすごい先生が往診に来るなんて!」
大谷洋一は少し気まずそうに頷いた。
「ええ、私です」
彼は、雨宮夏帆が名医の診察を受けられることを光栄に思い、感謝されるものだと思っていたが、彼女の言葉に耳を疑った。
「…帰ってください。私は死んでも、あなたに診てもらう気はありません」
雨宮夏帆の声は冷淡で、目の奥には深い侮蔑が宿っていた。まるで誰も眼中にいないかのようだった。
大谷洋一の脳内が、一瞬フリーズした。
彼が何か言い返すより早く、雨宮夏帆は介護士まで部屋の外へ押し出し、冷たく言い放った。
「二人とも出て行って。飯田孝太と木村雅也にも伝えて。二度と私に関わらないで!」
バタン!
扉が閉まる音が、冷たく響いた。
介護士と大谷洋一は、呆然と立ち尽くした。
特に大谷洋一は、人生で初めて味わう屈辱に震えていた。
俺は、日本でもトップクラスの医学教授だぞ?
その俺が、こんな扱いを受けるとは…!
耐えきれず、彼はすぐに木村雅也へ電話をかけ、怒りをぶちまけた。
介護士もまた、飯田孝太に状況を報告した。
部屋の中では。
介護士が持ってきた荷物の中に、携帯電話、銀行カード、そしてわずかな現金があった。
だが、雨宮夏帆が手に取ったのは、携帯電話だけ だった。
おばあちゃんはまだ入院している。
彼女には、いつでも病院と連絡が取れる手段が必要だった。
電話をかけると、おばあちゃんはまだ手術後の昏睡状態にあることを知らされた。
飯田家の人間は、皆病院からいなくなり、たった一人の介護士だけがおばあちゃんのそばに残っていた。
彼女は急いで病院へ向かった。
四年ぶりに見るおばあちゃんの顔。
その穏やかな表情は変わっていなかったが、確実に老け込んでいた。
八十を超えたおばあちゃんの白髪は増え、顔には深い皺が刻まれていた。
幼い頃、飯田真司と飯田美沙は仕事に忙しく、飯田孝太は勉強に追われていた。
雨宮夏帆を育てたのは、おばあちゃんだった。
彼女にとって、おばあちゃんは何よりも大切な存在だった。
監獄にいる間、彼女は毎日おばあちゃんのことを思っていた。おばあちゃんにもう一度会えずに死ぬのではないかと、何度も恐れた。
病室で三時間、おばあちゃんのそばに寄り添い、その後介護士に再三念を押して、病院を後にした。
出所した今、彼女にとって飯田家はどうでもいい。
おばあちゃん以外の誰とも、関わりたくない。
もちろん、飯田家の金にも頼らない。
スマホも、自分で稼いだお金で返すつもりだった。
今、一番大切なのは――自分を養える仕事を見つけること。
だが、問題はそこだった。
彼女には、何のスキルもない。しかも、前科者。
出来る仕事は限られている。
しかし、彼女の足が不自由で、顔も痩せりすぎた。
そんな彼女を雇ってくれる人なんてどこにもいなかった。