第1話 四年後
京市。
厳冬の三月。
骨まで凍りつくような寒さが、人々を氷窖に閉じ込めたかのように苛んだ。
女子監獄の作業場。
囚人服に身を包んだ雨宮夏帆が靴の縫製作業に没頭していた。
赤く腫れ上がった両手は凍傷と水膨れに蝕まれ、耐え難い痛みを発していた。
「雨宮夏帆!」
看守の鋭い声が響いた。彼女の肩が微かに震えた。
「飯田家が保釈手続きを済ませた。出所だぞ!」
「飯田」という響きに、夏帆の背筋に本能的な恐怖が走った。
四年前――彼女の運命が変わったあの日から、この二文字はトラウマとなって彼女の脳裏に刻まれていた。
あれは彼女の十八歳の誕生日だった。
幸せな日だったはずが、お嬢様育ちの彼女が「泥棒」の烙印を押された日だった。
何をぬすんだかって?
人生さ。
昔、家政婦として飯田家に仕えた彼女の実の母親が、立場を利用して、生まれてきたばかりの彼女を、同じく生まれたばかりの真の令嬢と入れ替えたんだ。
そのため、夏帆は十八年間、飯田家の令嬢として幸せな日々を送っていた。
そのことが露見したのは、家政婦である彼女の実の母親が、身分を明かして、彼女に金銭を要求したからだ。
あの時から、夏帆の人生が変わった。
飯田家の三人が泣きながら抱き合う光景を、夏帆は宙ぶらりんの状態で見つめていた。
十八年間「パパ」「ママ」と呼びかけた人々が、もう自分の両親ではないと悟った瞬間だった。
長い沈黙の後、元々父であった飯田真司がようやく夏帆の存在に気付き、「咲子が戻っても、お前は永遠に飯田家の娘だ。お前はただ妹が一人増えたと思えればいいさ」と宣言した。
元々母であった飯田美沙も「これからも実の娘同然にあなたを愛するわ」と付け加えた。
当時の夏帆は純粋にそれを信じた。
だが現実は残酷だった。
あの日は京市一の名門、高藤家の令嬢の誕生日パーティーだった。
その場で飯田咲子が高価なネックレスを盗むのを、家族全員が目撃した。
咲子の親友が飯田夏帆が盗んだと告発したのを、家族全員が目撃した。
高藤の令嬢が激怒し、警察に通報して彼女を監獄送りにするのを、家族全員が目撃した。
そう、彼らは全てを目撃したのだ。
目撃して、何も言わなかった。
それどころか、彼らは揃って夏帆に罪を擦り付けることを選んだ。
抗議し、泣き叫んだ彼女を、彼らが裏切ったんだ。
こうして監獄に叩き込まれた瞬間、彼女は悟っていた。
自分にとっての「家族」は、もうどこにもいなかったと。
「おい、こら。出所して幸せになるんだって? ねえ、お前らはどう思う?こいつが外に出たら、わたしたちのこと忘れやしないか?ちょい心配だわ」
監獄の姉御と呼ばれていた女囚が嘲るように笑った。
夏帆は反射的に土下座した。
「すみません...私が悪いんです...ですからもう殴らないでください」
看守が眉をひそめて叱責した。
「雨宮!早く出ろ!」
その声で現実に引き戻された。
もうこの地獄から出られる――。
震える膝を抱え、姉御の視線を背中に感じながら、夏帆はゆっくりと出口へ歩き出した。
出所手続きを終え、薄汚れた私服に着替えた夏帆は、正門まで護送された。
遠方に、黒光りする高級車のボンネットにもたれる颯爽とした男の姿が見えた。
漆黒のシルクシャツの襟元が乱れ、鋭い眼光が支配者的威圧を放っていた。
飯田孝太――十八年間「お兄ちゃん」と呼び続けた人物。
高藤莉子への釈明として、監獄内で「特別待遇」を手配した張本人。
まさに彼女の受けた地獄の日々の根源であった。
吹きすさぶ寒風よりも、胸奥の冷え込みが痛烈だった。
四年ぶりの再会に、麻痺したはずの心臓が軋んだ。
飯田孝太が目の前に来て、彼女は涙腺が熱くなるのを必死で堪え、頭を深く下げた。
「ご無沙汰しております...申し訳ありません」
孝太は目を見開いた。
かつてのわがままなお嬢様が、最初の言葉に「謝罪」を選ぶとは。
抗議の怒号を予想していた彼は、かすかな動揺を覚えた。
彼女は何を怖がっているんだ?
いや違う、四年前、彼女が大人しくなるのを強く希望したのは彼自身ではないか!
なぜこんなにも心がもやもやするんだ?
この瞬間。
彼の心に得体の知らない悲しみを覚えた。
「おばあちゃんが...お前を待ち侘びている」
不自然に柔らかい口調で口を開いた。
「高藤莉子がおばあちゃんの高齢と病状を慮り、示談書にサインをしてくれたんだ。それで早期出所が叶った」
ぎこちなく抱擁しようとする手を、夏帆は躱した。
孝太の眉間に皺が寄った。
「過去は水に流せ。さあ、俺に、お兄ちゃんについて来い」
お兄ちゃんについて来い?
この言葉をずっと待っていたんだ。
監獄に入ったばかりの頃、彼が助けに来ると信じて、毎日鉄格子を見つめていた自分を思い出した。
しかし、彼は来なかった。
なぜなら、彼女はもう家族がいなかったから。
この男が永遠に彼女を助けに来ない。来るはずがないんだ。
希望が失望に変わり、やがて絶望へと変わった。
だから、この男が今のように彼女の前に立っていることにも、彼女は何も感じなかった。
「高藤莉子様のご厚意、おばあちゃんのご心配...心より感謝いたします」
恭順の態度は、完全に他人行儀だ。
孝太はむしゃくしゃしたように眉根を刻んだ。
「父さんも言った。お前は依然として飯田家の令嬢だ。監獄にいたなど気にするな」
彼が幼い頃から甘やかしていたかわいいかわいい妹が、監獄にいたはずがなかろう。
それが、夏帆の耳に刺すような言葉だった。
四年間の牢獄。
毎日が屈辱だった。
看守の暴力、囚人たちの苛め、病に伏しても放置される地獄。
飯田の名は、彼女にさらなる苦痛をもたらす呪いでしかなかった。
「おばあちゃんの見舞いに急ごう」
孝太が歩き出すと、夏帆は付いていきながらも、一定の距離を保っていた。
それに気づいた孝太は苛立ちを覚えた。
俺がそんなに怖いのか?
そこまで距離を置く必要はあるか!
昔自分に甘えたかわいい妹の姿が思い出し、彼の苛立ちは更に強烈になった。
彼が知らなかったのは、夏帆の足に傷があることだ。
飯田家の人間を怒らせてはだめ、また牢屋生活に戻ってしまう!
なんてことを考えながら、彼女はずっと痛みを我慢して彼について行ったんだ。
転んでも、すぐ立ち上がって、追いかけて行ったんだ。
やっと車のところに付いた時は、孝太は既に車の中に入った。
運転手は四年前と同じく、下井浩二という人物だった。
下井は車から降りて、彼女に挨拶をし、車の後部座席のドアを開けた。
しかし、夏帆は後部座席には乗らなかった。
代わりに、助手席のドアを開けて上がった。
孝太はそれを見て、車から降りて、再び助手席のドアを開け、彼女を車から引きずり出して、ゴミを捨てるかのように、彼女を地面に投げつけた。
「そこまで俺が気に入らないなら、兄妹の縁を切るぞ!」
転倒した夏帆の足首が軋んだ。
それすら気に留めない孝太は続けた。
「飯田夏帆。少しは成長したと思っていたが、その幼稚さは全然変わらないとは!助手席に座ることくらいで俺が傷付くと思うのか?ふざけるな!」
「よくもこの俺にそんな顔ができるもんだな。自分の立場をわきまえろ!」
「乗りだくなければ乗るな!自分で歩いて帰れ!」
「忠告をしておくが、ばあちゃんの見舞いに行く時は、死んだような顔をするなよ。ばあちゃんを悲しませるな!いいな!?」
「下井、運転しろ!」
下井浩二は夏帆のことが心配だが、彼を逆らうことができないため、車を走らせて去っていった。
去っていく車を見送って、夏帆の心に何も感じなかった。
同じことは、四年前にすでに経験したからだ。
彼女が自分の立場をわきまえていないではなく、彼が家族と一緒に彼女をいるべき立場に叩き戻したことを忘れていたのだ。
彼女は拳を握り締め、ゆっくりと立ち上がった。
早くしないと、飯田家の人間が怒り出すかもしれない。
今の彼女は、その怒りに耐えられるはずがない。
歩みを進めると、突然ブレーキ音が響いた。
戻ってきた車内から、孝太の怒声が轟いた。
「自分で乗れ!さっさとしろ!」