第2話 砕けた鏡
雨宮夏帆は無言のまま、助手席に乗り込んだ。
飯田孝太は怒りを爆発させた。
「飯田夏帆、よくもやってくれたな!」
道中、二人は一言も交わさなかった。
30分後。
沈黙の中で、車は病院に到着した。
入院棟の前。
雨宮夏帆は慎重に車から降りた。
足の痛みで転びかけた瞬間、一人が駆け寄り彼女を抱き留めた。
飯田美沙――かつて最も彼女を愛したママだった。
華麗なワンピースに身を包み、完璧なメイクを施した飯田咲子もその後ろに続いていた。
四年前の痩せた面影とはうって変わり、今の咲子は豊満で唇は紅く歯は白く、女らしさに磨きがかかっていた。
「夏帆、ママはずっと会いたかったわ」
飯田美沙は感動の声を震わせた。
雨宮夏帆は彼女を押しのけ、軽く会釈した。
「雨宮夏帆、飯田美沙様にご挨拶申し上げます」
飯田美沙は呆然とした。
「夏帆、あなた...」
雨宮夏帆は何も答えなかった。
四年前に彼女が収監されて五日目、飯田真司は高藤家の前で親子関係断絶の証明書を書いた。
彼女の署名のために、わざわざ監獄にまで届けに来た。
その後、彼女は雨宮夏帆と改名した。
他の者は知らなくても、飯田美沙はこのことを知っていたはずだ。
罪悪感からか、美沙の目から突然涙が溢れ出た。声は優しく切なかった。
「夏帆、全て過去のことよ。昔のことはもう触れないで」
「顔色が悪いわね?もしかして病気?」
雨宮夏帆は淡々と首を振った。
飯田咲子が囁くように慰めた。
「ママ、お姉様は監獄で大変な思いをしたんですよ」
「でも今は無事に戻ってきたんじゃないですか。そんなに悲しまないで」
飯田美沙は安堵の表情で頷いた。
「そうね、無事ならそれでいいわ」
飯田咲子は鞄から菓子箱を取り出した。
「お姉様、お腹空いてません?これは雅也さんがくれたお菓子です。どうぞ」
彼女の瞳は澄み切り、雨宮夏帆を見上げる目にはいつも怯えと卑屈が滲んでいた。涙ぐんだ様子は誰が見ても彼女を守りたくなるだろう。
この点四年前とちっとも変わらなかった。
しかし、彼女が「雅也」という名を口にした時、微かに優越感がにじんでいた。
木村雅也――この男は雨宮夏帆の心の傷だった...
彼女は咲子を一瞥し、何も答えせず、お菓子も受け取ろうとしなかった。
雨宮夏帆の冷たい態度に、となりの飯田孝太が怒鳴りつけた。
「咲子が好意でくれてるのに、なぜ受け取らない!」
「それは咲子の大好物なんだぞ!」
「何年も牢屋に入って、礼儀すら忘れたのか?」
孝太の激昂ぶりに、飯田美沙は睨みつけた。
「妹にそんな口を利くんじゃない!」
そして、彼女は再び雨宮夏帆の腕を掴み、宥めるように言った。
「夏帆、孝太の言葉は気にしないで。ママがいる限り、誰もあなたを傷つけさせないわ」
彼女の目が潤んだ。
雨宮夏帆への贖罪と心痛が本物であることが伝わってきた。
しかし、雨宮夏帆は無感情に腕を引き抜き、一歩下がって距離を取った。
この光景に飯田孝太の怒りが再燃した。
「飯田夏帆!こっちが好意を見せてやってるのに、図に乗るな!」
「孝太!何度言えば分かるの!妹がやっと出所したばかりなのに!」
飯田美沙が叱責した。
「母さん、甘やかすのは止めてください!」
孝太の怒声がさらに高まり、雨宮夏帆を睨みつけた。
「俺や咲子に無視するのはまだしも、母さんはお前のことで毎日眠れずにいたんだぞ!何の権利があってそんな態度を取るんだお前は!」
「飯田家は18年間お前をお姫様のように育ててきた!飯田家はお前に全てを与えた!何一つ不自由ない生活をさせてきた!それなのになんだ、その態度は!」
「今すぐその不機嫌そうな顔をやめろ!でなきゃ監獄に戻れ!」
雨宮夏帆は心で嗤った。
彼女の全てが間違いって言うの?
ゴミのように蹴られ続けてきたのに、彼女がそれに対して負の感情を持つことさえ許されないのか?
雨宮夏帆が依然として沈黙を貫くのを見て、飯田美沙の表情にも不満が浮かんだ。
それでも口では孝太を叱りつけた。
「彼女は四年間苦しんできたのよ!まだ心の整理がついてないだけだから、これ以上責めないで!」
続けて雨宮夏帆に柔らかく語りかけた。
「おばあちゃんはね、あなたが今日戻ってくるのを知って、急に元気になったのよ」
「まず隣のホテルでシャワーを浴びて、身繕いしてからお見舞いに行きましょう」
「大丈夫、あなたはママの夏帆のままよ。ママは昔と同じように愛しているわ」
昔と同じように?
粉々に砕けた鏡が、再び元に戻るだろうか?
飯田美沙の愛情たっぷりの言葉に、雨宮夏帆の心は微動だにしなかった。
無表情で頷くと、その場を後にした。
病院隣のホテルに着いて、彼女は自分が無一文で部屋も取れない現実に打ちのめされた。
踵を返そうとした瞬間、柔らかな壁にぶつかった。
額がジンと痛んだ。
「夏帆?」
冷たい含みのある声が響いた。
その耳馴染みのある声に、雨宮夏帆の心臓が高鳴った。
すでに凍りついていた体が、鋭い寒風を容赦なく吹き込まれるような感覚に襲われた。
顔を上げると、懐かしくも整った面差しが視界に飛び込んできた。
木村雅也。
京市第三位の大家族である木村家の御曹司。
そして、かつての、彼女の婚約者。
雨宮夏帆は礼儀正しく頭を下げ、淡々と述べた。
「木村さん、ごきげんよう」
木村雅也は彼女の薄着と病んだように痩せた頬を見て尋ねた。
「今日、出所したのか?」
「はい」
雨宮夏帆は軽く頷いた。
空気が急に重くなった。
沈黙のまま、十数秒が過ぎた。
雨宮夏帆はそれ以上言葉を続けなかった。
木村雅也は面食らった様子だった。
昔の彼女はおしゃべりで、いつも彼の耳元で喋り続けていた。
彼は多弁な女が嫌いだった。
それでも彼女を遠ざけることはしなかったが、
嫌悪感を隠さずに態度に出すことはあった。
時にはうんざりすると、彼女に黙るよう命じたものだ。
彼の不機嫌を察すると、彼女は歌で機嫌を取ろうとした。
その歌声は透き通るように美しかった。
しかし歌い終われば、再べつのように喋り続けるのだった。
まったく、困った女の子だ。
この瞬間は、その女の子との四年ぶりの再会。
彼女はたった一言「はい」で済ますのか?
二人の沈黙が不自然な緊張を生んでいた。
ふと、木村雅也の視線が雨宮夏帆の足元に落ちた。
後ろから見ると明らかに足を引きずっていた。怪我をしているようだ。
彼は冷たい口調で言った。
「部屋を用意してあげるよ」
雨宮夏帆が拒否しようとした瞬間、木村雅也の厳しい声が響いた。
「足が不自由で金もないのに、無理してどうするつもりだ?」
「お祖母様が入院しているのに、早く身繕いして会いに行く気はないのか?」
雨宮夏帆が顔を上げると、彼の漆黒の瞳には逆らえない威圧感が漂っていた。
彼のことはどうでもよかった。
しかしおばあちゃんのことを考えた瞬間、麻痺していた心が疼き始めた。
自分が出所できたのは、おばあちゃんの尽力があってこそだ。
四年ぶりの再会。一刻も早くおばあちゃんに会いたいという思いが沸き起こった。
「では木村さんにお願いします」
雨宮夏帆は従順に答えた。
木村雅也が部屋を手配し、強引に部屋まで送り届けた。
雨宮夏帆は彼の後をついて歩いた。
彼の高く凛とした背中は電柱のように真っ直ぐだった。
漂ってくる淡い香水の香りが彼女の鼻を刺激した。
四年の歳月で、木村雅也は少年の面影を脱ぎ捨て、成熟した男の風格を漂わせていた。
つい先日まで監獄のニュースで彼の姿を見たばかりだった。
若くして木村グループアジア太平洋地域支社の社長に就任したエリートとして紹介されていた。
容姿と能力を兼ね備えたこの男に、雨宮夏帆はかつて狂おしいほど魅了されていた。
今でも彼を見ると、胸が高鳴るのを抑えきれなかった。
しかし、
彼は彼女を愛していない。
微塵も愛していないんだ。
以前は木村雅也が誰にでも冷たい性格だと思っていた。
決して温まらない石のように。
それでも彼女は信じていた。愛し続ければ、いつか彼の心を開くことができると。
しかし飯田咲子が戻ってきて、全てが変わった。
人を愛する眼差しは隠せない。
木村雅也が咲子を見る目は熱を帯び、溺愛に満ちていた。
雨宮夏帆はそこで初めて気付いた。
彼が冷たいわけではない。ただ彼女にだけ冷たいのだと。
咲子は何もしなくても、ただ存在するだけでこの男の心を掴んでいた。
飯田美沙もその想いに気付いていた。
だから咲子が戻ってきて数ヶ月後、
美沙は露骨に、木村雅也との婚約を咲子に譲るよう要求してきた。
木村家と飯田家の赤ちゃんの頃から決めていた婚約が、
血の繋がった娘でなければならない、と。
当時の彼女は羨望し、嫉妬し、婚約を返すことを拒んだ。
しかし美沙の態度は固く、拒否を許さなかった。
あれから四年も経っていた。
しかし、先日の監獄のニュースで、木村雅也がまだ独身だと知った。
もしかして、木村雅也と咲子はまだ結婚していないの?