第4話 水に流せ
その言葉に、飯田咲子は天にも訴えたいような表情で泣きじゃくった。
「私が悪いんです...お姉様、ごめんなさい...」
飯田孝太の胸にあった夏帆への同情は、咲子の涙を見たときはほとんど消えてしまった。
彼は子獅子を守る雄獅子が全身の毛を逆立てたかのように吠えた。
「咲子が傷つけたわけでもないのに、なぜ彼女を責める!ふざけるな!」
「ふざけているのはお前だ!」
突然、低く響く男の声が病室の入り口から流れ込んだ。
木村雅也が扉際に立っていた。
夏帆の四年間に渡る苦痛の記憶を含め、病室内にあった全てを彼は聞き届けていた。
「木村雅也?なぜここに?」
飯田孝太が驚いた。
「ホテルの部屋は木村さんが用意してくれました」
雨宮夏帆が淡々と述べた。
「お前たち...!」
飯田孝太の怒りが爆発した。
「木村雅也!咲子の婚約者としては、他の女と近づきすぎじゃないか?」
「問題の本質を見誤っているのでは?」
木村雅也の眉間に深い皺が寄った。
「夏帆は今日出所したばかりだぞ。お腹空いたのか、食事を摂ったか、誰も尋ねなかったんじゃないか!」
「この衰弱ぶりを見て、すぐに検査を受けさせることも考えなかったのか?」
この指摘に飯田孝太は反論出来なかった。
彼はしばし沈黙し、深いため息を漏らした。
「...確かに不手際だった」
雨宮夏帆は自嘲的な笑みを浮かべた。
木村雅也への視線には感謝も怨恨もない。
出所後、最も気遣ってくれたのが、
愛したが深く傷つけられた元婚約者だとは。
飯田美沙は涙を拭いながら言った。
「孝太、すぐに妹に食事を」
飯田孝太は慌てて高級レストランの栄養たっぷりメニューを選び始めた。
罪滅ぼしのように、通常より高い値段で特急配達を手配した。
「30分以内に届く」
彼は小声で伝えた。
「ありがとうございます、飯田さん」
雨宮夏帆の声は冷ややかだった。
「飯田さん」という呼び方に孝太は凍りついた。
出所以来、彼女は一度も「お兄ちゃん」と呼んでくれなかった。
見知らぬ赤の他人よりも冷たい態度だ。
怒りの炎が再燃し、孝太はベッドに駆け寄って詰め寄った:
「その傷、本当に監獄で受けたのか?水牢に電気ショックなんて、たたの牢屋が、そこまでするはずがないだろう!」
「法治国家でそんな拷問があるはずがない!」
夏帆の表情はさらに冷たくなった。
「へえ…飯田さんは、これは私が自分で傷つけたと仰りたいのですか?」
「京市女子監獄に収監されたのはここ一年のことで、その前に、私は九号監獄に三年間収監されていた事実はご存じないのですか?」
九号監獄――
その名を聞いた瞬間、病室の空気が張り詰めた。
孤島に築かれたその監獄は、凶悪犯のみを収容する地獄と呼ばれていた。
非人道的な管理システム、囚人への残忍な制裁――
この世でもっとも恐ろしい場所の一つと称されている場所。
その名を口にするだけで背筋が凍るような場所だ。
雨宮夏帆がそこで三年間も...?
「皆さんの表情を見ると、九号監獄の存在自体はご存じのようですね。あそこでの詳しい生活ぶりをご説明しましょうか?一生忘れられない話になりますよ」
雨宮夏帆の瞳は虚ろで、他人事のように淡々と語り始めた。
「初日、私の指先は鉄串に突き刺されました。その後すぐに、血しぶきが飛ぶほど引き抜かれ、痛みで気絶しそうになったときは、水をぶっかけられて意識を保たされ、それの繰り返し...痛くて痛くて、どんなに悲鳴を上げても、どんなに叫んども、どんなに辞めてってお願いしても、あの人たちはやめてくれなかった」
「二日目、唐辛子水の鞭で皮膚が裂けるまで叩かれた..」
「十日目、水蛭やネズミだらけの水牢に閉じ込められ、体中をかじられ、助けを呼ぶ声さえ出せないほどの痛みが...」
「やめろ!これ以上言うな!」
飯田孝太が聞くに耐えず、大声で夏帆を遮った。
飯田咲子は恐怖で耳を塞ぎ震えていた。
雨宮夏帆が鋭い視線を投げつけた。
「聞くだけで耐えられないのですか?では体験した私は?」
「なぜ九号監獄にいることを伝えなかった!俺たちは全く知らなかったぞ!」
孝太が怒鳴った。
「伝える手段があったと?」
雨宮夏帆の笑いが病室に響いた。
「唯一、看守に電話を借りようとしたら、一晩中吊るされて殴られました!」
孝太の顔から血の気が引いた。
雨宮夏帆は虚空を見つめて続けた。
「京市に戻れたのは、天が私の死を許さなかったのでしょう...」
「でも、京市に戻ったとしても、今度は監獄の姉御にいじめられました」
「飯田さん、咲子さんが牢に入らなくて良かったと、心底安堵してるでしょう?」
孝太の拳が軋んだ。
顔には深い皺が刻まれ、魂が抜けたようだった。
言葉を探すが、空虚な慰めしか浮かばなかった。
「夏帆...苦しかったね...」
飯田美沙は嗚咽に言葉を絞り出した。
「飯田美沙様、これは私が18年間贅沢した代償です」
雨宮夏帆の平静な声がさらに飯田美沙の胸を締め付けた。
「ママが悪かったわ…何か補償を」
「補償?」
雨宮夏帆が首を振った。
「補償すべきは咲子さんです。彼女の18年間の人生が奪われたのですから」
「飯田夏帆!母さんが必死に償おうとしてるのに、なぜそんな刺のある言い方をする!」
飯田孝太の声が荒れた。
彼の目には矛盾した感情が渦巻いていた。
「過去は過去だ。もう水に流せ!出所したんだから、前を向いて共に暮らせないのか?」
「こんなに騒いて、家族を傷つけてることに気付け!」
水に流せ?
たった四文字で四年間の地獄のような生活を消し去れると?
他人の痛みも知らずに他人を赦せと?
加害者が道德の高みから迫る姿に、雨宮夏帆は嗤いの言葉を口に出したかったが、言いかけた瞬間に飲み込んだ。
どうせ何を言っても無駄だ。
木村雅也の心は激しく揺れていた。
他人事とは思えぬほどの怒りと憐憫が湧き上がった。
「孝太、あの女は何も騒いでいない。ただ事実を述べただけだ」
「慰めるどころか叱責とは、兄として人間失格だ」