第9話 その態度は何?
安澄は赤ちゃんをあやしたあと、またすぐに眠りに落ちた。次に目を覚ましたときには、もう朝になっていた。
そのタイミングで、双子の赤ちゃんが一斉に泣き出した。空腹で声を張り上げている。
紗那は赤ちゃんを抱えて焦っていた。できれば娘を起こしたくなかったけど、この子たち、手がかかりすぎ。ほんの少し遅らせるってことは無理なの…?
安澄はその泣き声で意識がはっきりしてきて、ぼんやりしながら口を開いた。
「赤ちゃん、お腹すいてるのかな?」
紗那はうなずき、すぐに一人を安澄の腕に抱かせた。
安澄は赤ちゃんを胸に抱いて、ミルクをあげ始める。
外では、桜井家のおじいさんとおばあさんも、その泣き声に目を覚ましてしまっていた。70代、80代の老夫婦が慌てて起き上がり、安澄の部屋の前までやって来た。
翔真は昨夜、書斎で寝ていた。そしてちょうどそのタイミングで廊下に出てくる。
祖父と孫が無言で目を合わせ、そのまま安澄の部屋のドアをじっと見つめた。
次の瞬間、おばあさんがノックしようと手を上げたけれど、その指先がドアに届く直前、泣き声がぴたりと止まった。どうやら赤ちゃんは落ち着いたらしい。
おばあさんの手はそのまま空中で止まって、少しだけ考え込んだあと、小さく声をかけた。
「安澄?起きてる?」
部屋の中で、その声を聞いた安澄は顔を上げてドアの方を見た。
紗那も同じく視線を外に向けた。彼女は、桜井家の人間がひとり残らず苦手だった。
「おばあさん、起きてます。今、赤ちゃんにミルクあげてます」
安澄はしばらく黙っていたが、ついに答えた。
何も言わなかったら、おばあさんが勝手に入ってきそうな気がした。もしかしたらおじいさんも一緒かもしれないし…それはさすがに気まずい。
ドアの外では、桜井家の祖父母がその声を聞いてホッとしたような顔になった。かわいい孫がさんと世話されているのなら、それでいい。
翔真も、安澄の言葉に無意識に安堵の息をついた。けれどそのあと、ドアをじっと見つめる祖父母の姿に、うっすらとした苛立ちがこみ上げてきた。
彼はスマホを取り出し、時間を確認してから口を開いた。
「じいさん、ばあさん。オレ、仕事行ってくる」
二人は翔真の方を振り返って見た。
翔真は少しのあいだ言葉を止めたが、結局それ以上何も言わず、そのまま背を向けて出ていった。
安澄が赤ちゃんに授乳しているあいだに、家のお手伝いさんが朝食を準備していた。特に安澄のための朝食は、産後の回復を助ける専用のスープ。身体に栄養を与えるだけでなく、母乳の出をよくする効果もある。何しろ、今は双子を育てているのだから。
朝食を食べ終えると、おじいさんとおばあさんは赤ちゃんたちを眺めてうっとりしていた。かわいらしい双子の孫は、何度見ても飽きない。本当に天使みたい。
ただ、赤ちゃんたちは生まれたばかりで、まだ少し黄疸が出ていた。だから、日光浴が必要。ベビーシッターが時間を見計らって二人を連れて外へ出ると、おじいさんとおばあさんも一緒についていった。
その間、部屋の中では紗那がようやく安澄の隣に腰を下ろして、ふっと笑みを浮かべた。
「にこ、今朝あなたのパパから連絡があったの。うちの金のお店、鎌沢にも支店を出そうって考えてるんだって」
「1ヶ月後、もし無事に桜井と離婚できたら、すぐに青岡に戻る予定だけど…もし何かあって時間がかかるようなら、ちょうどその新しいお店で修行がてら手伝えるでしょ。ちゃんと覚えてくれたら、そのうち全部のお店、あなたに任せようと思ってるの」
「マ…」
安澄がそう言いかけたとき、紗那がすぐに口をふさぐ。
そうだった。ここはまだ桜井家。母娘の関係がバレてはいけない。
「これ、まずいんじゃ…?」
安澄が小声で聞くと、紗那は笑顔で首を振った。
「何が?あの男の子たちは家業に興味ないんだもの。にこまで嫌がったら、このまま全部、他人に取られちゃうわよ?」
「それはダメ」
すぐに安澄は言い返した。
紗那はうれしそうにうなずいた。
「そうよね。パパもママも、前はすごく辛かった。でも…やっと、あなたを見つけられた。にこ、家のこと、やってみる気ある?海外には鉱山もいくつかあるし、青岡の金のお店の半分以上はうちのグループ。規模はかなり大きいのよ。今度機会があったら“原石選び”にも連れていってあげる。楽しいわよ、あれ」
もう、ありがとうなんて言葉じゃ足りなかった。
これが、本当の親の愛情なんだ。パパもママも、優しすぎるくらい優しい。
安澄はそっと腕を伸ばして、母を抱きしめた。頭を胸に預けると、ほんのりとした温かさが広がった。
これが、お母さんのぬくもりなんだ。
紗那もそっと娘を抱きしめた。
長い年月、失っていた大切な宝物、ようやく、取り戻せた。ずっと夢みたいだったけど、今になって、少しずつ実感が湧いてきた。
彼女のにこは…本当に戻ってきたんだ。
そのあたたかな時間を破るように、部屋のドアが「コンコン」とノックされた。
安澄と紗那は同時に顔を上げる。
紗那が立ち上がり、ドアを開けると、お手伝いさんが立っていた。
「安澄さん、外に何人かいらしてて…ご親族だとおっしゃってます。安澄さんに会いに来たと」
「親族?」
ふたりは一瞬顔を見合わせ、緊張が走る。
「通してあげてください」
安澄が言うと、お手伝いさんは「かしこまりました」と頷いて戻っていった。
安澄は立ち上がった。
パパか、兄たちか…もしかして叔父?
けれど、階段を降りてきたとき、リビングで待っていた“親族”を見て、心が一気に冷えた。
そこにいたのは、養父の高松石龍、養母の高松文香、そして乃彩だった。
桜井家の祖父母はリビングで一緒にお茶を飲みながら、形式的なやり取りをしていたが、顔の緊張を見れば明らかだった。まったく歓迎していない。
階段の音に気づいた全員が視線を向ける。
そして乃彩も、安澄の姿を見て笑顔を浮かべる。けれどその瞳には、一瞬だけ鋭い嘲りがのぞいた。
彼女が立ち上がると、大きく突き出たお腹がくっきりと目立った。
「お姉ちゃん、降りてきたの?赤ちゃんが生まれたって聞いて、パパとママと一緒に会いに来たの」
安澄はほんの少し足を止めたが、何も言わず、落ち着いた様子で階段を降りていった。
石龍と文香も彼女に視線を向けた。
安澄はその場に立ち止まり、少し間を置いてから静かに言った。
「赤ちゃんの様子を見てくる」
この一家に、何か言うつもりなんてなかった。話す価値もなかった。
「安澄!」
文香が語気を強めた。
「わざわざ会いに来てやったのに、その態度は何?」
安澄はふっと笑って振り返り、養母をまっすぐ見つめて言った。
「じゃあ聞くけど、乃彩が私の夫の子どもを妊娠してる状態で、私が産後でまだ体も回復してない時に見舞いに来るって、そっちの態度はどうなの?」
それを聞いた紗那も、さすがに頭にきた。
彼女は安澄の前に立ちふさがり、鋭い視線を乃彩のお腹に向けて何度も何度も見つめた。
その視線に、乃彩の背中にゾクリと寒気が走った。まるでお腹の中の子どもまで、面と向かって「汚い存在」だと責められているような気がして。
「な、なによ…なに見てんのよ!」
ついに乃彩が堪えきれず、紗那を睨みつけた。
けれど紗那は、冷たく淡々と、しかし容赦なく言い放った。
「あなたのお腹を見てるのよ。あと、人としての最低限の恥ってやつもね。自分の姉の夫にまで手を出すなんて、どこまで堕ちたら気が済むの?そんなことして、よく平然としていられるわね。国の恥よ。あんたみたいなのがいるせいで、全体が汚されるの。いい?こんなこと、一生口に出さずに墓まで持っていくのが当然なの。バレたら最後、世間の信用も、名誉も、ぜんぶ地に落ちる。ほんと、一粒のクズが、鍋全体を腐らせるのよ」