第2話 最強の実家がやって来る
優山は勤務中にもかかわらず、焦った様子で兄の財前圭介に電話をかけた。
声は震えていて、落ち着きのかけらもない。
「兄さん!やばい、すぐに鎌沢に来て!姉さんも一緒に!今すぐ、今すぐに病院まで来て!マジで一刻を争う事態!見つけた、にこが…にこがうちの病院にいた!!」
言い終えた瞬間、優山はもうじっとしていられなくなった。
いても立ってもいられず、電話を切るとそのまま病棟へと駆け出していった。
電話の向こうで言葉を飲み込んだまま、茫然としたのは兄の圭介。
あの子のことか?
いくつもの思考が頭の中を駆け巡るが、確認の言葉を口にする前に、電話は無情にも切られていた。
「ちょっと待てよ…!」
文句のひとつも言いたいところだが、弟が嘘をつくはずがない。特に“あの子”に関しては。
圭介も落ち着いていられず、すぐにオフィスを飛び出した。そして妻に連絡を取る。
その頃、ちょうどフェイシャルケア中だった財前紗那は、電話を受けた瞬間にすべてを理解した。
「にこ?」
次の瞬間には、顔に乗せていたパックもそのままに美容院を飛び出し、自宅の車に飛び乗っていた。
「空港へ!今すぐ鎌沢行きの便に乗るの!」
運転手にそう叫ぶ紗那の目には、すでに涙があふれていた。
にこ、うちの子…本当に、あの子なの?
あれから20年以上、ようやく会える日が来たの?
車の中で空港へ向かう道中、紗那は動揺してどうすればいいのか分からず、涙があとからあとからあふれてきた。
うちの子…私の大事な娘…!
胸の中で何度もそうつぶやいていると、ふいにハッと気づいた。
やだ、私、顔…まだパックしたままじゃない!
すぐにバッグからウェットティッシュとミネラルウォーターを取り出し、慌てて顔を拭きはじめた。
こんな顔のままで会ったら、びっくりされちゃう…ちゃんときれいにして、最初の一瞬、大事にしなきゃ…!
そしてすぐに、三人の息子たちにも次々と連絡を入れた。
「にこが見つかったのよ!すぐ鎌沢に来て!」
青岡でも名を馳せる財前家の三兄弟は、妹が見つかったという知らせを聞いた瞬間、全員が息を呑んだ。
すべての予定を即座にキャンセルし、それぞれの場所から急いで鎌沢へ向かいはじめた。
妹が見つかったんだ!
一方その頃、鎌沢中央病院では、産科主任の優山が真っ先に病室へと飛び込んでいた。
白衣に金縁のメガネをかけた優山が突然現れたことで、病室の空気が一気に張り詰める。
中にいた患者や家族たちは驚いて彼を見たが、優山は誰の視線も気にせず、一直線に安澄のベッドへ向かってきた。
その勢いに、安澄は思わず緊張して身をこわばらせた。
え、えっ…?もしかして…私、入院費、ちゃんと払ってるよね?
ざわつく病室の中、周りの家族や産婦たちも、なにが起きているのかと興味津々に見つめてくる。
財前先生、何しに来たの?
勢いのまま病室に飛び込んだ優山だったが、中に入ってようやく我に返った。
あ、しまった。いきなり来すぎたかもしれない。
親子鑑定は彼女に黙って、こっそり行ったものだった。安澄自身は、まだ何も知らない。自分たちがどういう関係なのかさえ、きっと、まだ気づいていない。
そう思った優山は、ゆっくりと深呼吸をして心を落ち着けた。
そしてベッドに横たわる安澄の顔をあらためて見つめた。
やっぱり、見れば見るほど兄さんたちにそっくりだ。特に…紗那姉さんに。
若い頃の姉さんをそのまま写したような顔に、優山は胸がいっぱいになった。
「にこ…いや、ごめん…桜井さん、だよね?」
口を開きかけたとき、思わず、財前家で呼んでいた姪の幼い頃の愛称が出そうになってしまった。けれど、その名が彼女にはまだ通じないことにすぐ気づき、あわてて言葉を飲み込み、言い直した。
優山はベッドの安澄を見つめながら、相手を驚かせないように、そっとやわらかな口調で話しかけた。
「このお部屋…ちょっと手狭に感じませんか?きっと落ち着かないですよね。実は、上のフロアにもう少し静かで広いお部屋が空いてまして。もしよろしければ、すぐにお部屋を移していただくこともできますよ。そちらの方が、ゆっくり休めると思います」
唐突な申し出に、安澄の思考は一瞬で真っ白になった。
え…?手狭…?
目の前の産科主任をぽかんと見つめながら、安澄は戸惑ったまま、部屋の中を見回した。
たしかに、病室は狭くて落ち着かない。自分以外にも数人の産婦がいて、それぞれに大勢の家族がついている。ほんの少し前にも、目が覚めたとたんに自分の噂話が聞こえてきたばかり。
でも、VIP病室って…本当に限られた人しか使えないはず。そんなところに、私なんかが…行ってもいいの?
優山は安澄の表情にほんの少し迷いが見えたのを見逃さなかった。
よかった!
その瞬間、顔がぱっと明るくなり、急いで言葉を続けた。
「もしご迷惑でなければ、今すぐ新しいお部屋に移りましょうか?」
そう言うやいなや、優山はすぐに病室を出て行き、看護師をふたり呼びに行った。
双子の赤ちゃんは看護師たちが丁寧に抱きかかえ、優山自身は慎重に安澄の腕を取り、ベッドからゆっくり立たせて病室を後にした。
二階の騒がしくて窮屈な大部屋から、四階のVIPフロアへと移動した。
広々とした個室には温かみのある照明、清潔で上品な内装、そして大きなダブルサイズのベッド。
安澄がベッドに横になると、ふたりの赤ちゃんもそのまま彼女の隣に寝かせることができた。ぴったりの距離で、何の心配もいらなかった。
「ありがとうございます」
ベッドに落ち着いた安澄は、そっと頭を下げて感謝の気持ちを伝えた。
けれど、優山はその場に立ったまま、黙って彼女の顔を見つめ続けていた。ずっと見ていた。視線を逸らす気配もなかった。
だんだんと安澄は落ち着かなくなり、視線を泳がせながら口を開いた。
「先生…まだ何か、お話があるんでしょうか?」
おそるおそるたずねると、優山は慌てたように首を横に振った。
ぶんぶんと全力で否定したかと思いきや、次の瞬間には、今度はこくりと小さくうなずく。
視線をそらせないまま、安澄を見つめるその表情には、やわらかな優しさと、どこか、気に入ってほしいと願うような、そんな気配がにじんでいた。
安澄はふと眉をひそめる。優山もそれに気づいた。はっとして、優山はすぐに姿勢を正し、軽く咳払いをひとつ。気持ちを切り替えるように、深呼吸して、そして、背中に隠していた親子鑑定書を、慎重に取り出した。
不思議そうに受け取った安澄が、その書類をめくった瞬間、彼女の目が、見る見るうちに大きく開いていく。
安澄は勢いよく顔を上げ、優山をまっすぐに見つめた。
その視線を受けた優山は、もう黙っていられなかった。
「えっと…ぼ、僕は…財前優山って言います。君のお父さんの…弟で…つまり、その、叔父です…!」
声は途中から震え、語尾もあやふやだった。
安澄の瞳が、ふたたび大きく揺れた。
「にこ…びっくりさせてごめん。でも…安心して!お父さんもお母さんも、そしてお兄ちゃんたちも、今こっちに向かってる。青岡から飛行機で、あと3時間くらいで着くよ。もうすぐ会えるからね…!」
優山の声は震えていたけれど、それ以上に、こらえきれない喜びと興奮がにじみ出ていた。