第4話 彼女は離婚を望んでいる
安澄は圭介の言葉を聞きながら、そっと兄たちの方へ目を向けた。特に、ちょっと不満げな顔をしていた北斗の様子には、思わず笑いそうになった。
「にこ、俺が君の父さん、財前圭介。今年で56だ。おかえり、にこ。これからは、ずっとうちの家族だ。何かあったら財前家に任せろ。誰かが君に手ぇ出すなら、父さんがそいつ倍にしてやり返すから!」
圭介のそのどんと構えた宣言に、安澄は小さく頷いた。
「はい」
胸の奥にじわっとあたたかさが広がっていく。
「僕もいるよ、にこ。俺は次男、財前将輝。警察で働いてる。何か悪いヤツに絡まれたら、いつでも連絡して。絶対、捕まえてやるから」
それまで黙っていた将輝が、優しく笑って言った。
その瞬間、部屋の中の空気が少し変わった。誰もが彼に視線を向け、その目には深いものが宿っていた。
優山がそっと安澄の方へ向き直り、語りかけるように言った。
「にこ、将輝はね、君を探すために警察になったんだよ。君がいなくなってから、家族みんなでいろんな方法を試したけど、どうしても見つけられなかった。将輝は、人さらいのことを心の底から憎んでて…だから、大人になったら絶対に捕まえたいって思って警察官になった。そして、警察のネットワークで君を探し出したかったんだ」
安澄は、思わず息をのんだ。
警察官だったことにも驚いたけど、将輝がその道を選んだ理由が自分のためだったなんて、想像もしていなかった。
長いあいだ凍りついていた心が、今日一日ずっとあたたかかった。そして今、この瞬間、胸がどくん、どくんと高鳴っていた。
安澄は、ためらわずに将輝に向かって両腕を広げた。
将輝もそっと歩み寄り、静かに、やさしく彼女を抱きしめた。
次の瞬間、紗那が優しく二人を包み込むように抱きしめに来た。続いて、圭介と瑛太、北斗も加わり、ほんの数分の間に、家族全員でぎゅっと抱き合っていた。
その幸せな空間のすみで、優山はずっと立っていたけど、気づけば目の奥が熱くなっていた。思わず手をあげて、こぼれそうな涙をそっと拭った。
再会の感動に浸る間もなく、父さんも母さんも、兄たちも、すぐに慌ただしくなった。安澄には、まだ生まれたばかりのふたごの赤ちゃんがいる。これから必要なものは山ほどある。
赤ちゃん用の服に、靴、靴下、帽子、ふわふわの可愛い哺乳瓶に、おむつ…全部そろえなきゃ!と家族全員がそわそわし始めた。
それを見て、安澄は思わず笑ってしまった。
「お父さん、お母さん、お兄ちゃんたち、赤ちゃんのものはちゃんと準備してあるよ。だから心配しないで」
ひとりでずっとお腹の中で育ててきた大事なふたりの命。安澄は、誰よりもふたりを大切に思っていて、すべての準備をきちんと整えていた。
みんなが赤ちゃんの用品を見に行くと、本当に何もかも完璧に揃っていて、ようやく安心したようだった。
「よしよし、じゃあみんなちょっと静かにしよう。にこは出産したばかりなんだから、ゆっくり休ませてあげなきゃ」
優山がそっと声をかけた。
その言葉に、全員がはっとして、一斉に口を閉じた。
桜井グループ。
翔真は眉間に深くシワを寄せて、次々と書類に目を通しながら、赤ペンで容赦ないコメントを入れていった。数分も経たないうちに、彼は不機嫌そうに顔をしかめ、書類を机の上に乱暴に放り投げた。
「会議、すぐに準備しろ」
隣のデスクでは、親友の福田駿河がため息をついて言った。
「翔真、安澄のこと…病院に様子を見に行ったらどうだ?」
「行く必要なんてない」
翔真は冷たく突っぱねたあと、鼻で笑って毒を吐いた。
「俺の子を産むために必死になってたんだ、自分からすり寄ってくるだろ」
駿河は何か言いかけたが、口を閉じて黙ってしまった。
そして彼は、各部署に会議の通知を出しに行った。全員が素早く対応し、通知から数分で最上階の会議室に集まった。
翔真は書類を持って現れ、すぐに会議を始めた。内容は緊迫したもので、時間は40分。長いようで、あっという間でもある。会議を終えてオフィスに戻った翔真は、無意識にスマホを手に取って画面を確認した。
反応なし。
安澄からの着信は、なかった。
彼女が出産した後、最初の一度きりしか連絡はなかった。
デスクに戻った翔真は、スマホを机の上に放り投げたが、すぐにまた視線を向けてしまう。画面は静まり返っていて、通知はひとつもなかった。もちろん安澄からの着信も。
「駿河」
翔真が呼びかける声には、イライラがにじんでいた。
「今晩、予定あるか?」
「今日はね、元々飲み会の予定があったけど、相手の都合でキャンセルになったんだ。だから今夜は仕事なし、ゆっくりできるよ」
しばらく黙っていた翔真は、ポツリと言った。
「飲みに行こう」
駿河は少し考えたあと、軽く頷いた。
「いいよ」
鎌沢中央病院。
安澄の周りには三日間、家族がずっと付き添っていた。
けれど三日目の午後、仕事の都合でみんな青岡に戻らなければならなくなった。
父と兄たちは名残惜しそうに安澄と別れを告げ、病室を後にした。病院に残ったのは、母の紗那と、鎌沢で働いている叔父の優山だけだった。
本当は一緒に青岡へ戻る予定だったのだが、安澄は翔真と離婚届のサインは済ませていたものの、まだ正式に役所で手続きが終わっていなかった。そのため、すぐには鎌沢を離れられなかった。
安澄はここに残らざるを得なかった。翔真と正式に離婚届を提出して、きちんと手続きを終えるまでは、鎌沢を離れて青岡へ行くことはできなかった。
娘の状況を知った紗那は、高松家と桜井家のことを何度も怒鳴り散らし、「もう我慢ならない!」と、財前家の力を使って一泡吹かせようとまでした。けれど、それを止めたのは安澄だった。
四日目、安澄は退院した。
自宅に戻ると、家のあちこちに、自分の手で丁寧に整えたインテリアが目に入った。ぬくもりがあって、やさしい雰囲気に包まれている。
翔真が仕事を終えて家に帰ってきたとき、少しでもリラックスできて、心地よく過ごせるように、ほんの少しでも笑顔になってくれたらと願って、家の隅々まで心を込めて整えていた。
でも現実は、翔真が目を覚ましたあと、家にいたのはたったの二、三ヶ月。すぐに出ていってしまった。
彼にとって、自分は何の感情もない相手だった。お腹の子も、ただの「事故」でできた命。
忘れもしない、初めて病院で翔真が乃彩と一緒にいるのを見た日。
乃彩は誇らしげに言った。
「私も妊娠してるの。翔真の子よ」
その言葉に我慢できず、安澄は思わず彼女を平手打ちした。危うく流産しかけた。
そしてその後、翔真は無理やり離婚届にサインをさせ、家には二度と戻ってこなかった。
一人での出産、誰もいない病室、聞こえてくる心ない噂…全部が辛かった。でも、そのときようやく、気づいたのだ。
無理して続ける結婚なんて意味がない。終わらせるべきときが来たのだ。
二日後、安澄は自分から翔真に電話をかけた。
ちょうどそのとき、翔真は会議中だった。
彼のポケットに入ったスマホが突然鳴り出し、会議室の空気が一気に変わる。全員が驚いて、音のする方向を見た。
翔真も一瞬動きを止め、そして皆の視線を受けながらスマホを取り出した。
画面に表示された名前:
【安澄】
一瞥しただけで、彼は不機嫌そうに通話を切り、そのまま何事もなかったかのように会議を続けた。