第6話 もう再婚はしたくない
役所に入って予約の手続きをするのは、そんなに面倒じゃなかった。ただ、安澄が分厚い産後用の服で来てたもんだから、ちょっと目立ちすぎてた。
まわりの人たちがひそひそと彼女たちに視線を向け、そのあとで翔真をジロジロ見始めた。
紗那は安澄のことを本当に丁寧に世話していた。
翔真は昔から、ずっと憧れの的だった。それなのに今日は、周りからクズ男を見る目で見られてる。そんなの初めてだ。
その視線がめちゃくちゃイラつく。翔真は苛立ちを抑えきれず、窓口の職員に声を荒げた。
「まだですか?急いでくれませんか?」
職員は彼の顔を一瞬だけ見て、でも態度を変えることなく、いつものペースで処理を進めていた。
安澄は真面目に職員の質問に答えて、すべて答え終わったあと、差し出された書類に静かに署名した。
翔真もペンを手に取り、名前を書こうとしたそのとき、不意に、彼のスマホが鳴った。
翔真は眉をひそめてペンを置き、スマホを取り出した。そして、画面を見た瞬間、手が止まった。
そのまま彼は静かに窓口から離れて、電話に出た。
その頃、窓口では紗那が安澄の手をぎゅっと握り、何も言わずに気持ちを支えていた。
一方の翔真は、電話の内容をほんの数秒聞いただけで、表情がガラッと変わった。離婚のことなんてすっかり頭から飛んでしまって、そのまま外に飛び出していった。
紗那は慌てて追いかけた。
でも…翔真、走って逃げた!?
「ちょっと!何してんのよあんた!」
紗那は怒りを抑えきれずに、彼の名前を叫びながら全力で追いかける。でも、どんどん距離をあけられて――
「桜井ーーーっ!!!!!」
どこまで逃げる気なの??サインするだけなのに、何で逃げるのよ!?
サインしてから出ていけばいいじゃん!死ぬわけでもないし!
「にこ、ちょっとだけここで待ってて。ママ、あのクズを捕まえてくるから!絶対30分以内に引きずって戻すから!」
そう言い残すと、紗那は猛ダッシュで翔真を追った!
ところが外では、翔真はすでに黒いロールスロイスに乗り込んでいた。車が発進したその瞬間、そのスピードはまさに一瞬で紗那の前を通り過ぎて消えた!
「は!?」
紗那は慌てて通りに飛び出し、走ってくる車を無理やり止めた。そして運転手に10万円を差し出して言い放った。
「お願い!あのロールスロイス、追って!」
運転手は突然止められて怒りかけたが、目の前の現金に言葉を飲み込んだ。札束の力は偉大だった。黙ってエンジンをかけ、追跡開始。
だけど、ロールスロイスなんて、普通の車で追えるわけがない。たった二分走っただけで、もう影も形も見えなくなっていた。
運転手が気まずそうに振り返って、助手席に座っている財前紗那をちらりと見ながら、恐る恐る聞いた。
「あの…見失っちゃいましたけど、10万円はもらえるんでしょうか…?」
紗那はムカッとしたけど、そこまで理不尽な人じゃない。すぐにスマホを取り出して、運転手に10万円を振り込んだ。
金額を見た運転手は、目の色を変えて笑顔でこう言った。
「姉さん、マジですごいっす!」
「じゃあ、役所に戻って」
安澄はまだ民政局にいる。紗那は急いで戻らないといけなかった。
娘は出産したばかりで、ちょうど産後の大事な時期。そんなときに、一人きりで民政局に置いてくなんて、絶対ダメだった。
「了解っす、姉さん!すぐ戻ります!」
運転手は嬉しそうに即答した。
10万円ももらったんだ。戻るどころか、この金持ち姉さんを県外まで送ったって文句なんかあるわけない。
そうして車はすぐに発進し、紗那を役所まで送り届けた。
中に入ると、安澄はじっと母の帰りを待っていた。
紗那は娘の姿を見た瞬間、それまでの怒りなんて一気に吹っ飛んで、代わりにこみ上げてきたのは心配と、ちょっとした申し訳なさだった。
「ごめんね…ママ、追いつけなかった」
そう言いながら、紗那は安澄の手をそっと握って、優しく声をかけた。
「ううん、大丈夫だよ」
安澄は静かにそう答えた。声に感情はあまりこもっていなかった。
「ねえ、にこ…今日はもう帰らない?離婚のことは、また別の日にしよ」
本当はもっと聞きたいことがたくさんあった。でも、口に出しかけてやめた。あんなに元気のない娘の顔を見たら、余計なことを聞くのは酷だって思った。だから、途中で言葉を切って、そっと気遣いに変えた。
「うん」
安澄は小さく頷いた。
そのまま紗那はもう一度タクシーを呼び、安澄を連れて帰宅した。
家では、ベビーシッターが二人の赤ちゃんを見ていた。安澄たちが帰ってくると、赤ちゃんを抱いたまま笑顔で迎えに来てくれた。
「赤ちゃんたち、どうだった?」
「すごくお利口でしたよ。ぜんぜん泣かないし。ちょうどミルクあげようか迷ってたところだったんです。でも、思ったより早く帰ってこられてよかったです」
そう言った瞬間、ベビーシッターの腕の中にいた赤ちゃんが、じーっと安澄を見つめて、小さな手を一生懸命伸ばしてきた。抱っこしてって言ってるみたいに。
安澄の心が一瞬でとろけた。すぐに赤ちゃんのそばへ行って、ぎゅっと抱きしめた。
すると赤ちゃんは、抱っこされた瞬間から安澄の胸にスリスリ。
これって…ミルク欲しがってるのかな?
それを見たベビーシッターも笑顔で言った。
「お嬢さん、きっとミルクが飲みたいんですね」
「まずは布団に入って。身体冷やしちゃダメよ」
紗那が優しく声をかけた。赤ちゃんのことももちろん大事だけど、彼女にとっては娘のほうがもっと心配だった。
安澄は母の言うとおりに布団に入って、あたたかい毛布をかぶったあとで、二人の赤ちゃんを腕に抱きかかえ、ミルクをあげた。
その光景を見ながら、紗那の胸にこみ上げてきたのは怒りだった。桜井家も高松家も、本当に許せない。こんなに優しい娘を、なんであんな風に傷つけられるの?
「にこ、大丈夫。産後の期間が終わったら、あのクズ男、ちゃんとケリつけに行こうね。絶対に離婚してやるから」
赤ちゃんにミルクを飲ませ終わったあと、紗那はそっと娘を励ました。
安澄は母の顔を見て、穏やかに微笑んだ。
「うん」
その笑顔に紗那も安心した。そしてもう一言、付け加えた。
「離婚しても心配いらないよ。にこがもし再婚したいって思うなら、うちにはまだまだ人脈あるし、いい男なんていくらでも選び放題。ママが保証する。次は絶対、あいつなんかよりいい人見つけようね」
「……」
安澄はちょっと黙ってから、ぽつりと口を開いた。
「ママ…私、もう再婚はしたくない」
翔真ひとりで、十分すぎるほど傷ついた。もうこれ以上、誰かと関わる気力なんて残ってない。
紗那はその言葉にまた胸が痛んだ。
にこはまだ20代前半なのに。普通なら、いちばん輝いてる時期なのに、どうしてこんなつらい思いばかりしなきゃいけないの?
「大丈夫よ。今は無理に考えなくていい。好きな人がいないなら、一人で気楽に暮らせばいいし、もし好きな人が現れたら、そのときはママが全力で応援するから!」
ママ…ほんとに優しい。
そう思った安澄は、気づいたらそっと手を伸ばして、ぎゅっと母を抱きしめていた。
午後になって、翔真からまた電話がかかってきた。
でも、今度の電話の内容は意外なものだった。
「安澄…おばあさん、心臓が弱くてさ。今朝、俺たちのこと知って、発作起こして倒れたんだ。だから今夜、爺さんと婆さんがそっちに行くから、頼む、うまく対応してあげて、もう怒らせたりしないでくれ」
電話の最後に、翔真はそんなふうに釘をさしてきた。