第8話 ママ、ありがとう
「何勝手なこと言ってんの、このバカたれが!この結婚はね、安澄が別れたいって言ったときにしか終わらないの!あんたに安澄に離婚切り出す資格なんか、どこにもないわよ!」
おばあさんは翔真を叩きながら怒鳴っていて、その迫力たるや本気だった。
とはいえ、年齢には勝てず、何発か叩いたところでおばあさんは息が上がってしまった。
「翔真、さっさと安澄に謝りなさい!ばあばにこれ以上心配かけるんじゃない!」
ついにおじいさんが口を開いた。その声は年齢を感じさせないほどの重みと威厳があった。
翔真はまた動きを止め、おじいさんの顔を見た。
おじいさんは無表情で低く言った。
「お前ももう大人だろ。何をどうすべきか、もう一度俺に教えてもらうつもりか?」
その瞬間。
「ゴホッ…ゴホゴホッ…」
部屋の中に、おばあさんの咳が響いた。
一気に場が凍りつき、みんなが慌てておばあさんに目を向けた。翔真も急いで駆け寄って、支えに入る。
咳き込んだあと、おばあさんは安澄と赤ちゃんたちを見つめながら、かすれた声で言った。
「安澄…今回のことは翔真が悪かった。でもね…子どもたちももう生まれてるじゃない?どうか、子どもたちのために…一度だけ、この子を許してくれないかしら?」
「離婚したら、この子たち、片親になっちゃうでしょ」
「もしまたこの子があなたを傷つけるようなことをしたら、ばあばに言って。あたしがちゃんと叱ってあげるから」
その声には、年老いた祖母の静かな願いと、どこか切ない懇願が滲んでいた。
その光景を見ていた紗那は、心の中で怒りが爆発しそうだった。
この老婆、苦肉の策なんか使って、うちの娘に情で攻めてくるなんて!
この人、体も弱ってて、あと何年元気でいられるかもわからない。今、にこが首を縦に振らなかったせいで、もしこの老婆が体調崩したら…
世間はなんて言う?
「桜井家のおばあさんを怒らせて死なせた女」なんて、絶対に言われる。ひどすぎる。
「ちょっとちょっと、みなさん何やってんの?大騒ぎしてさ」
紗那が口をはさんできた。
「安澄、ついこの前出産したばっかりで、今がいちばん体を休めなきゃいけない時期なのに…そろいもそろって押しかけてきて、もう少し彼女の身体のこと考えてくれませんか?」
そう言いながら、紗那は優しく安澄のほうを見て話しかけた。
「安澄、昨夜赤ちゃん何度も起きてたでしょ?ぜんぜん寝れてなかったじゃない。今ちょうど静かなんだし、少しだけでも目を閉じなさい。あとでまた起きてミルクあげなきゃいけなくなるんだから」
安澄はパチパチとまばたきしながら、母を見つめた。
すると紗那はそっと手を差し伸べて、安澄を優しく寝かせ、毛布をかけてやった。その仕草はあたたかくて、とてもやさしかった。
「はい、安澄はおやすみの時間。皆さん、少し静かにしてあげましょうか。どうぞ、お引き取りを」
紗那は立ち上がって、やんわりとした態度で、しかしはっきりと客を帰す雰囲気を出した。
この追い出しが見事だった。
一方は、年老いた身体を武器にして「情」で攻めてくるおばあさん。
もう一方は、出産直後の体調を理由に「休ませる」という形で防御しつつ、自然に話を締めくくる紗那。
安澄は布団に入ってしまったし、周囲もそれ以上強く出ることはできず、仕方なくその場をあとにした。
けれど、追い出せたのは部屋からだけだった。家から出ていってもらうのは無理だった。
安澄と翔真はまだ正式に離婚届を出していない。法律上はまだ夫婦だし、この家も翔真名義の持ち家であり、桜井家の所有だ。
つまり、彼らが「ここに住む」と言えば、外部の人間には止める権利なんてない。
そんなわけで、桜井家の祖父母はそのままこの別荘に居座ることになった。
しかもそれだけじゃない。
「翔真も今後はこの家に戻って住みなさい!」
祖父母の命令で、翔真も同居を強制されることになった。
「安澄にちゃんと尽くせ!二度とバカな真似はするな!」
そう厳命されて。
翔真の心の奥では戻りたくないという気持ちが渦巻いていたけれど、おばあさんの体調のことを思えば、逆らえなかった。結局、彼はうなずくしかなかった。
高松家。
「ガシャーン!」
高級化粧水のボトルが勢いよく投げつけられ、鏡が粉々に砕け散った。
「離婚しに行ったんじゃなかったの?一体誰よ、あのことをおじいさんとおばあさんにバラしたのは!?」
乃彩は大きなお腹を抱えながら、次々と化粧品を投げては息を荒げていた。
「乃彩さん、お願いですから、怒らないでください!赤ちゃんに良くないですよ…」
マネージャーの七瀬萌香が慌てて声をかけた。
乃彩の顔はどす黒く、全身からピリピリとした殺気がにじみ出ていた。
「萌香、今すぐ動いて。誰が情報を漏らしたか、徹底的に調べて。できれば、安澄がわざとおばあさんに話した証拠を押さえて。見つけたら、翔真兄さんに渡す!」
「乃彩さん…もしかして、安澄さんがわざとおばあさんに情報を漏らしたってことですか?」
萌香は驚いて、思わず声を上げた。
「ほかに誰がいるのよ?」
乃彩は冷たく笑い、吐き捨てるように言った。
「もうすぐ私の子どもが生まれるのよ?しかももし男の子だったら、おじさんが翔真兄さんと私の結婚を認めないわけないじゃない。だからあの女、焦ってるの」
「でも…安澄さんも双子で、男の子もいますよ?」
萌香はおそるおそる指摘した。
乃彩は鼻で笑って言い返した。
「それが何?安澄なんて、うちの養女にすぎない。私が彼女を嫌ってる限り、高松家は彼女を大事にしないし、財産だって一銭も渡らないわよ」
「翔真のお父さんは男の子が好きで、金のことも大事にしてる。もし私と安澄が両方息子を産んだとしても、選ばれるのは“何も持ってない養女”じゃなくて、“本物の娘”である私の方よ!」
「いい?もし証拠が見つからなかったとしても、作ればいいの。とにかく、全部安澄の仕込みだってことにして、みんなに信じ込ませなさい!」
その冷たい命令に、萌香はすぐさま頷いた。
「はい!」
「そうだ、それと、子どもを産んだらすぐ復帰するつもり。今のうちに良さげな仕事があったら全部チェックしておいて」
乃彩のその一言に、萌香は一瞬戸惑ったものの、すぐにうなずいて答えた。
「わかりました!」
安澄は少し昼寝をして、ふと目を覚ました。外はもう真夜中。
赤ちゃんのことが気になって、無意識にライトをつけようとした。
パチン、と音を立てて明かりをつけた瞬間、隣で寝ていた紗那も目を覚ましてしまった。
まだ少しぼんやりしていたけれど、すぐに意識がはっきりして、安澄の顔を見て心配そうに声をかけた。
「にこ、どうしたの?」
「喉乾いた?それともトイレ?」
「ママが一緒に行くよ」
そう言って、布団をめくろうとする母の手を、安澄は慌てて引き止めた。
「大丈夫。起きただけ。子どもの顔をちょっと見たくなって…」
その言葉に紗那は一瞬止まったあと、ふっと笑ってうなずいた。
「わかった。ママが抱いてくる」
赤ちゃんも長く寝ていたし、おむつが濡れてないかチェックした方がいい頃合いだった。ずっと濡れたままでは、肌に悪い。
安澄も一緒に布団を出ることにした。ずっとベッドに横になっていたから、体が少し重たかった。
紗那はすぐに動き、厚手の産後服を安澄に着せてあげた。
「起きるときはちゃんと着込むのよ。冷えたらダメだからね」
「うん、ありがとう、マ…」
そう言いかけた瞬間、紗那がとっさに手で安澄の口をそっと塞いだ。
紗那は気をつけるように外を見てから、スマホを取り出し、文字入力でメッセージを打ち、安澄に見せた。
その画面を見た瞬間、安澄はすべてを理解した。
ママが昼間、みんなの前で「本当の母娘」だと名乗らなかったのは、桜井家に知られたくなかったからだ。
もし今、安澄と財前家のつながりがバレたら、桜井家は彼女にしがみついて離婚しない可能性がある。そうなれば、安澄の未来が台無しになってしまう。
だから今はまだ、秘密にしておくべきだった。
離婚が成立して、書類を受け取ったそのときこそ、すべてを公にするタイミングだ。
安澄はそっとスマホを取り、メモ帳に短く打ち込んだ。
「ママ、ありがとう」
たった数文字に、たくさんの気持ちが詰まっていた。
ふたりはそのメッセージを確認し終えると、すぐに削除した。
余計な証拠は残さない。ふたりの関係がバレるわけにはいかなかった。