第5話 明日、役所に行く
家の中で、安澄はぷつんと切られた電話を見つめながら、胸の奥がずしんと重くなるのを感じていた。
「今の、彼が切ったの?」
紗那が、眉をひそめて不機嫌そうに言った。
安澄は無言でスマホを開き、再び翔真に電話をかけた。
一方、桜井グループの会議室では、翔真は来電表示を見て、小さく鼻で笑った。相手が安澄だと分かった瞬間、迷いなくまた電話を切った。
ほぼワンコールで切られた。さすがにこれが偶然じゃないことぐらい、安澄にはわかっていた。
少し迷ったあと、彼女は短くメッセージを打ち込み、送信した。
【翔真、離婚しよう。前に離婚届にはサインしたけど、まだ一緒に役所には行ってないよね?もし今週どこかで時間あるなら、一緒に行って手続き終わらせよう】
【安心して。もう、あなたのこと困らせたりしないから】
短いメッセージを二通送り終えた安澄は、スマホをテーブルに置いた。
横で見ていた紗那は、娘の表情に胸を痛めていた。
会社では、翔真は「さすがに今度こそ諦めただろ」と思っていたところだった。会議を再開しようとしたそのとき、スマホが震えた。今回は、メッセージの通知音だった。
翔真はちょっとイラついたようにスマホを手に取り、「また何だよ」と思いながら画面を開いた。
そして、目に飛び込んできたのは離婚の話だった。
一瞬、頭の中が真っ白になった。
ただ、それはほんの一瞬のことだった。
「ふん」と鼻で笑うと、翔真はスマホを手に立ち上がり、そのまま会議室を出て安澄に電話をかけた。
家の中。
安澄のスマホが鳴った。画面を見ると、翔真の名前が表示されている。
深く息を吸い込んでから、通話ボタンを押した。
「何がしたいわけ?」
話す間もなく、翔真の冷たい声が飛んできた。
安澄は隣で眠る赤ちゃんをちらっと見下ろした。とても静かで、いい子なのに、パパとママは、もうすぐ別々になるんだ。
「別に、何か仕掛けてるわけじゃない。ただ…私たちの離婚届、もう半年以上前にサインしてたでしょ。だったら早く手続き終わらせたほうがいいんじゃない?このまま時間だけ過ぎても意味ないし」
その声には、どこか疲れが滲んでいた。
「何が目的なんだ?」
翔真の声が刺すようだった。
安澄は小さく笑って、静かに言った。
「目的なんてないよ。ただ、あなたが一度帰ってきてくれたら、役所に行く予約だけでも一緒にしておこうって話。そうしたら、ちょうど一ヶ月後に正式に離婚できるから」
それまでには産後の静養も終わるし、赤ちゃんを連れて鎌沢を出られる。青岡で両親や兄たちと新しい暮らしを始めるつもりだった。
もう鎌沢にはいたくない。気力が持たない。
電話は、返事がないまま切れた。
けれど、長く一緒にいた相手のことは分かる。翔真は、きっと来る。離婚のために。
そして夜、翔真は本当に帰ってきた。
黒のスーツをびしっと着こなして、シャツの第一ボタンまできっちり留めている。ドアをくぐる長い足、全身から漂う冷たさと圧。彼らしい気迫だった。
ちょうど紗那が安澄にお湯を持ってきていて、階段から入ってきた翔真を見た。
翔真も紗那に気づき、足を止めて見つめ返す。
二人は何も言葉を交わさず、そのまま階段を上がっていった。紗那の横をすっと通り過ぎ、部屋へ向かった。
部屋の中、安澄はベッドの背に寄りかかって座り、赤ちゃんを抱いていた。
ドアのほうから物音がして、母親が戻ったのかと思い顔を上げた。でもそこにいたのは翔真だった。
瞬間、安澄の顔から笑みが消えた。腕の中の赤ちゃんを抱く手にまで、緊張が走った。
「明日、役所に行く」
翔真の声は短く、ぶっきらぼうだった。
心がきゅっと痛んだけど、安澄は平然を装ってうなずいた。
「わかった」
その言葉に翔真は眉をひそめた。じっと彼女を見つめる視線には、何か探るような気配があった。
泣きながら、離婚なんて嫌って言ってたくせに…
翔真の目線が、安澄の腕に抱かれた赤ちゃん、そしてベッドの隅に眠るもう一人の赤ちゃんへと移る。
まだ生まれたばかりの小さな命たち。
一瞬だけ近づこうか迷ったが、足を動かした直後、彼はくるりと背を向け、そのまま部屋を出ていった。
その夜、翔真は主寝室に戻らず、書斎で黙々と仕事をして、そのままひとりで眠った。
次の朝。
翔真はすぐには出て行かず、きっかり午前九時に部屋の前に来て、静かにノックした。
「安澄、そろそろ役所に行く準備、してくれ」
ドアの向こうから響いたその声に、紗那は思わず怒鳴りそうになったが、寸前でグッとこらえた。
もう少しで、娘がこのクズときっちり別れられるんだから…ここで騒いでも損だわ。
今はまだ、財前家のことを明かすタイミングじゃない。
財前家は影響力も資産も大きい家。もしこの男に、にこがその家の子だと知られたら、しつこく食い下がって、離婚なんて絶対にしたがらなくなるかもしれない。
そんなことになったら、にこの人生、半分以上がこの男に振り回されることになる。
今は我慢。正式に離婚できたら、そのとき一発ぶちかませばいい。
そう心の中で念じながら、ふと娘のほうを見ると、ちょうど安澄が布団をそっとめくり、ベッドから体を起こそうとしていた。
「ちょっと待って、これ着て!」
すぐに紗那は、用意しておいたふわふわの厚手の服を取り出し、手早く安澄に渡した。
出産後の身体は冷えが大敵。絶対に無理はさせられない。
実際、特に準備するようなものはなかった。
簡単に身支度を整えて、安澄は分厚い産後用の服を着たまま、翔真と一緒に家を出た。
「私も行くわ」
心配になった紗那があとを追う。
翔真はちらっと紗那のほうを見て、不思議そうに尋ねた。
「あなたは?」
安澄もその声に反応し、母の顔を見た。
紗那は一瞬だけ戸惑ったものの、すぐににこやかな表情を作って答える。
「あ、私はにこ…安澄ちゃんの友達です。最近出産したって聞いて、お見舞いに来たんです」
翔真は一瞬「???」という顔になった。
紗那は綺麗にしているが、それでも年齢的に友達というにはちょっと無理がある。
疑問が顔に出そうになった翔真は、無意識に安澄の顔を見た。
「たまたま知り合って、すごく親しくしてもらってて…」
安澄が慌ててフォローする。
翔真はそれ以上は何も言わず、軽くうなずくだけで黙り込んだ。
そのまま三人は家を出て、玄関先に止まっていたロールスロイスに乗り込んだ。
車内は暖房がしっかり効いていて、安澄も冷たい空気に触れることなく、穏やかに過ごせた。
目的地まではあっという間。
数分で役所に到着した。
「やっとだわ」
紗那は小さくつぶやき、少しだけ口元が緩んだ。
もうすぐ、娘が自由になれる。このクズからやっと解放される。
急いで車を降りて、安澄の腕をそっと支える。
翔真は二人を見つめていた。
安澄はまあいつも通りの表情だけど、その友達は…なんでそんなに嬉しそうなんだ?
離婚だぞ?
安澄は分厚い産後用の服に身を包み、頭にもニット帽。すっぽりと覆われて、もうモコモコの繭玉みたいだ。
それでも紗那はさらに防風用のブランケットを取り出して、上からもう一度しっかり安澄の身体を包み込んだ。
「外は寒いから、さっさと中入っちゃおう。風に当たっちゃダメよ」
車から降りる直前、紗那がもう一度念を押す。
「うん、わかった」
安澄は母の気遣いに、ふんわりと微笑んで頷いた。
そうして母娘は車から降りると、そそくさと役所の建物へ向かって小走りで歩き始めた。
翔真はその後ろ姿を見ながら、心のどこかがざわざわした。
気分の悪さが込み上げたけど、口には出さず、二秒黙っただけで自分も車を降りる。長い脚で歩幅を合わせながら、彼女たちの後に続いて役所の中へと入っていった。