第1話 出産の時、夫は他の女の妊娠検査に付き添っていた
鎌沢中央病院・産婦人科・分娩室。
赤ちゃんの元気な泣き声が響いた瞬間、分娩室にいたスタッフたちの顔がほころんだ。
「おめでとうございます、桜井さん。男の子と女の子、双子ちゃんですよ」と助産師が優しく声をかけた。
ベッドの上で、桜井安澄はうっすらと笑みを浮かべながら、なんとか目を開け、医師に囲まれたふたりの赤ちゃんの方を見ようとした。
その頃、分娩室の外では看護師が赤ちゃんを抱えて何度も呼びかけていた。
「桜井安澄さんのご家族いらっしゃいますか?付き添いの方はいませんか?」
何度呼んでも返事はない。誰も、来ていない。
ベッドの上でその声を聞いた安澄の顔がさっと青ざめていく。
翔真…本当に来なかったんだね…
全身の力が抜けて、重力に負けるように身体が沈んでいった。
医師と看護師たちはすぐに彼女を病室へ運び、さっき生まれた双子の赤ちゃんも一緒に連れていった。
病室にはすでに他の産婦が三人。それぞれに家族が付き添っていて、誰もがにぎやかで幸せそうだ。夫が妻の世話をしていたり、ベビーベッドのそばで新米パパが赤ちゃんを抱いてあやしていたり、笑い声と優しい空気に包まれていた。
そんな中で、安澄だけがぽつんと、誰にも付き添われずにベッドへ運ばれてきた。
周囲の視線が一瞬だけ安澄に向いたが、誰も何も言わず、すぐにまた自分たちの世界に戻っていった。
「ねぇ、さっきニュース見た?高松乃彩、妊娠してるって!パパラッチが妊婦検診してるとこ撮ってたんだって!」
「うそでしょ?乃彩って最近賞も取った女優じゃん?今の時期に妊娠?」
「ガセじゃないの?」
「いや、あの大きさは本物でしょ。もう8、9ヶ月って感じだったし、すぐ産まれそうな勢いだったよ」
「ていうか、結婚してなかったよね?未婚のまま妊娠とか、芸能界ほんとすごいな」
「いやいや、一番すごいのは付き添ってた相手よ。桜井グループの社長、桜井翔真だったって!身長180センチで俳優よりカッコいいって噂の彼だよ?しかもまだ28歳!乃彩、あれはもう完全に玉の輿ってやつじゃない?」
そんな話に盛り上がっている周囲とは対照的に、安澄はベッドの隅でじっと目を閉じたまま、顔色がどんどん悪くなっていた。
しばらくして話題が変わり、ようやく会話の熱が落ち着いた頃、安澄はおそるおそるスマホを手に取り、連絡先をスクロールして、桜井翔真の名前で止めた。
少しの間、迷っていたが、意を決して発信ボタンを押した。
「なに?」
電話越しに聞こえた声は、氷のように冷たかった。
「赤ちゃん、産まれたの…男の子と女の子、双子だったよ。来てくれない?」
小さく震える声に、返ってきたのは不機嫌な声だった。
「今、忙しい。行けない」
そして、電話は無情にも切られた。
安澄はしばらく耳に残る通話終了音を聞きながら、そのままスマホを握りしめた。
手が震えていることにも気づかないほど、心が冷えていた。
安澄はふいに、どっと疲れが押し寄せてきたのを感じた。目を上げると、すぐ隣のベビーベッドにふたりの赤ちゃんが静かに眠っていた。
泣きもせず、ぐずることもなく。まるでママの気持ちがわかってるかのように、すやすやと眠っている。
その姿を見た瞬間、張りつめていた気持ちがふっとほどけて、安澄はスマホを横に置いてベッドに横たわると、まぶたが自然と閉じていった。
少しだけ…休もう…
どれくらい寝たのか分からない。ぼんやりと目を覚ますと、病室の一角からひそひそ声が聞こえてきた。
あれ、これ…私のこと?
「こんなときに誰も付き添ってないなんて…ちょっと可哀想だよね」
しかも双子でしょ?私だったら嬉しくて泣いちゃう!」
「でもさ、ああいうのって……不倫とかだったりして。だから誰にも言えないんじゃない?」
「えっ、そんなことある?」
「あるでしょ。あんなに綺麗な人なのに、ちゃんとした結婚してるなら、旦那だって絶対来るよ。たとえ来れなくても、義理の親か実の親のどっちかくらい来るでしょ?家族誰もいないって、普通じゃないって。たぶん他人の旦那に手出して、その結果じゃないの?関わらないほうがいいよ」
義両親…
両親…
夫…
安澄はその言葉たちが頭の中をぐるぐる回りはじめて、さっきまで少し落ち着いていた胸が、またズキッと痛み出した。
この世界に…私のことを本気で愛してくれる人なんて、まだいるのかな…
義両親には、ずっと好かれてなかった。
実の両親も乃彩ばかりを可愛がっていた。
夫までもが、心は最初から、乃彩に向いていた。
私がただの養女で、乃彩が両親の実の娘だから?
20年前、高松家はなかなか子どもができず、孤児院から安澄を迎えた。
でもその直後に、お母さんは奇跡的に妊娠して、乃彩を産んだ。
それからはずっと、安澄は「外の子」みたいな扱いだった。
両親はいつだって、乃彩ばかりを大事にしていた。
三年前、翔真が事故に遭って昏睡状態になったとき、桜井家は「厄を払うため」に急いで縁談を進めることにした。
高松家はその話に飛びついて、利益のために、安澄を花嫁として差し出した。
一年前、翔真が奇跡的に目を覚ました。
あの瞬間、安澄はようやく暗闇の中に光が差した気がして、やっと、この長いトンネルから抜けられると思った。
でも、その希望はすぐに打ち砕かれた。
まさか、妹の乃彩が翔真に一目惚れするなんて…
翔真のことが本気で好きだった安澄は、それをきっかけに高松家と完全に決裂した。
子どもの頃から、ずっと妹に譲ってばかりだった。
だから、せめて、夫だけは譲りたくなかった。
だけど、どれだけ努力しても、どれだけ気持ちをぶつけても、翔真の心を動かすことはできなかった。
六ヶ月前、久しぶりに帰ってきた翔真が持ってきたのは、離婚届だった。
安澄は一瞬たりとも、応じたいなんて思わなかった。
たとえ気持ちがすれ違っていたって、たとえ彼の心がすでに乃彩に向いていたとしても、自分は「妻」の座だけは絶対に手放さないつもりだった。たとえ一生このままでもいい。彼のそばに居続けて、乃彩には“浮気相手”のままでいてほしい。それが、せめてもの意地だった。
でも、そんな覚悟も、翔真の冷たさの前では打ち砕かれた。
安澄の妊娠を知った翔真は、まさかの言葉を突きつけた。
「離婚しないなら、その子、堕ろしてもらう」
そんなの、できるわけがなかった。
医者にはっきり言われた。安澄の体は妊娠のリスクが高くて、この子を堕ろせば、もう二度と妊娠できなくなるかもしれないと。
家族がいない自分にとって、子どもは唯一の希望だった。
母親になることだけは、絶対に諦めたくなかった。
だから、離婚届にサインした。
翔真は子どもたちの実の父親。だから出産前に一縷の望みにかけて、翔真に電話した。
けれど、あの人はやっぱり来なかった。
一方その頃、鎌沢中央病院・産科主任の財前優山は、一枚の検査結果を前に言葉を失っていた。
親子鑑定、陽性?
209号室のあの子が…本当に兄さんたちの娘だなんて…
彼女を初めて見たとき、優山は心の底から驚いた。あまりにも義姉にそっくりで、顔立ちには兄の面影まであったのだ。
最初はまさか、と思っていた。でも、どうしても気になってしまって、ついに我慢できず、こっそり採血して検査を出した。
まさか、本当に当たりだったなんて!