第9話 夢にはいつか覚める時が来る
3年前、拓は安部玲奈を実家に連れて行った。
その頃、泉はまだ大学生で、学校と実家はかなり離れていた。それでも彼がたまに実家に来るのを逃さないために、毎日通い続けていた。
その日、泉は逃さなかった。
拓が安部玲奈を「彼女」として家族に紹介するところを、この目で見た。
彼らが裏庭で抱き合い、キスをする姿を、この目で見た。
あの頃、彼女は一生遠くから拓を見守るしかないと思っていた。
拓と結婚したその日、泉は自分が夢を見ているのではないかと思った。
しかし、夢にはいつか覚める時が来る。
安部玲奈――彼女こそが泉を目覚めさせた人だった。
胸に小さな痛みを抱えながら、泉は淡々と微笑んだ。
「お久しぶりです、安部さん。ますますお美しくなられましたね」
今や、彼女は「お義姉さん」と呼ぶことすらできない。
安部玲奈は微笑みながら、
「ありがとう。あなたも素敵よ。そうだ、泉、L.Xの直筆サイン入りアルバム、気に入ってくれた?あなたがL.Xを好きだって聞いて、ちょうど彼女が私の海外の友人だから、帰国する時にサインをもらってきたの」
泉はその瞬間、雷に打たれたような衝撃を受けた。普段冷静沈着な彼女も、どう対応すればいいのかわからなくなった。
まるで道化師のように、周囲の人々に笑われている気分だった。
彼女は拓を見つめた。目には少しだけ懇願の色が浮かんでいた。
拓に「その話は違う」と言ってほしかった。あのプレゼントは自分が用意したのだと、そう言ってほしかった。
だが、拓は彼女を冷たく見つめ、心を突き刺すような言葉を口にした。
「どうした?玲奈が持ってきたプレゼント、気に入らないのか?」
泉の顔からは感情が消え、何の表情も浮かべることができなかった。
しばらくして彼女は冷静を取り戻し、淡々と言った。
「昔話は後にして、皆さん長いことお待たせしましたし、早速仕事を進めましょう」
「そうね」
安部玲奈は頷き、拓に向き直って言った。
「拓、お仕事に戻って。お昼は一緒に食べましょうね」
「うん」
泉は彼が去る後ろ姿を見つめながら、胸の苦しさに息もできないような気分だった。
彼が自分に少しでも心を寄せてくれていると思った。
彼が自分に少しでも感情を持っていると思った。
なんて滑稽なんだろう。
会議終了後
会議が終わったのは午後3時だった。双方のチームが互いに握手を交わす。
泉は手元の書類をまとめながら、
「皆さん、お疲れ様でした。お礼にご飯をごちそうしますね。下の階に新しくできた火鍋屋がすごく本格的なんです」
安部玲奈のマネージャー、川田美優が答えた。
「いいですね、それならお言葉に甘えます」
スタッフたちはお互いに軽く挨拶しながらエレベーターに向かった。
川田美優が言った。
「玲奈さん、朝倉社長が一緒に食事しようって言ってたから、彼も呼びましょうか?」
安部玲奈は微笑みながら答えた。
「聞いてみるわ。でも拓が同意するかは分からないけど」
「どうして?あんなに玲奈さんのことを大事にしてるのに」
川田美優がからかった。
「玲奈姉さん、謙虚すぎますよ。朝倉社長との関係がどれほど深いか、誰だってわかりますよ。帰国した途端、MQのアンバサダー契約を任されるなんて」
「もういい加減にして」
安部玲奈は困ったように笑い、ちらりと泉を見た。
「泉さん、先にみんなを連れて行って。拓と後で行くわ」
安部玲奈の笑顔を見つめながら、泉の胸は刺すように痛み、黙って頷いた。彼女は資料をオフィスに戻し、他のスタッフたちと先に火鍋屋に向かい、個室を予約した。簡単にいくつかの具材を注文し、場を和ませるように話を振った。
これは彼女の仕事であり、慣れたものだ。
食卓は次第に賑やかになり、双方のスタッフが楽しげに話し始めた。
食事の席で
川田美優が話題を振った。
「朝倉部長のお名前は以前から耳にしていました。この業界で長いこと活躍されているんですよね?」
製品マネージャーがすぐに話に乗り、肩を叩いて自慢げに語った。
「そうそう、まだ3年くらいだけどね。朝倉部長を若いからって侮っちゃダメだよ。去年大ヒットしたMOBAゲーム『戦紀』、あれのマーケティングアドバイザーを務めたのが朝倉部長なんだ」
川田美優はさらに言った。
「なるほど、確かに優秀ですね。でも、朝倉部長は社長の妹だって聞いたことがありますが?」
その言葉に製品マネージャーは顔を曇らせ、黙り込んだ。
まるで朝倉部長がコネで昇進したかのような言い回しだったからだ。
泉は微笑みを保ちながら答えた。
「そうとも言えるかもしれませんね。爺さんには育てていただいた恩がありますので」
川田美優は笑顔を浮かべ、
「朝倉会長に直接育てられるなんて、並大抵のことではありませんね」
その含みのある発言に、製品マネージャーをはじめ他のスタッフたちの顔も険しくなった。
泉は淡々とした表情で答えた。
「父と爺さんは年齢を超えた友情を持っていました。そのおかげで私は路頭に迷うことなく済みました」
「そうなんですか?お父様が朝倉会長に肝臓を提供したからではないのですか?」