第8話 なんて寛大なんだろう
喉の痛みを押し殺しながら唾を飲み込み、震える声を抑え込んだ。
「でも、安部さんのイメージは、製品のテーマと合わないと思います」
安部玲奈は海外で冷たく洗練されたスタイルで活動している。
「それは君の仕事だ、僕の問題ではない」
拓は冷たく言った。
「君なら何とかできるだろう。このアンバサダー契約は玲奈にとって非常に重要だ。全て君が進めなさい」
泉の全身は麻痺し、顔の筋肉が引きつる。笑うべきか泣くべきかもわからなかった。
拓は彼女の能力をこれほどまでに評価している。それでも、彼の初恋の相手を正妻である彼女に押し付けるという残酷な仕打ちを平然と行う。
拓、本当に私を泥人形のように思ってる。傷つくことなんてないとでも?
「わかりました。全力でやらせていただきます」
泉はガラスの破片で喉を削られるような声で答え、一語一語、力を振り絞った。
トイレ
泉は吐き気に襲われ、何度も嘔吐しようとしたが、何も出てこなかった。
お腹をそっと撫でながら、お腹の中の赤ちゃんをなだめる。
鏡に映るのは、顔色が蒼白で目が赤く腫れた女性だった。
冷水で何度も顔を洗い、必死に自分に言い聞かせた。
大丈夫……大丈夫。
安部がイメージキャラクターになっただけ。
彼女の広告撮影や宣伝活動を進めるだけ。
これが自分の専門分野だ、何の問題もない。
鏡に映る自分を見つめ、精一杯の笑顔を浮かべてみせた。
父親に約束したのだ。父がいなくなった後、どんなことがあっても強く生き抜くと。
父は空の上で見守っている。だから父を失望させるわけにはいかない。お腹の赤ちゃんも同じだ。
オフィスに戻って
泉は小川佑希のマネージャーに折り返しの電話を入れ、謝罪しながら別の小規模ブランドの香水広告を提案した。さらに、今後適切な案件があれば真っ先に小川佑希を優先すると約束し、ようやく納得してもらえた。
電話を切った後、泉はアシスタントに安部玲奈の詳細な資料を持ってくるよう指示し、部門のメンバーを集めてミーティングを開いた。
一日中忙しく駆け回り、ようやく3つの候補プランを決めた。
その後、泉はアシスタントに安部玲奈のマネージャーと連絡を取り、面談の日時を設定させた。
疲れた身体を椅子に預け、眉間を押さえながら隣に置いてあった書類に目をやった――離婚協議書だ。
軽く中身を確認すると、拓の条件がいかに太っ腹であるかがわかった。
別荘2棟、高級車2台、そして4億円。
なんて寛大なんだろう、社長。
泉は苦笑した。
会議室
泉が到着すると、運営部長、製品マネージャー、チーフデザイナーらも続々と会議室に集まってきた。
しかし、安部玲奈と彼女のチームの姿はまだ見えない。
泉はアシスタントに「安部さんのマネージャーに連絡して急かして」と指示した。
しばらくしてアシスタントが戻ってきた。
「朝倉部長、連絡はしました。もうすぐ到着するとのことです」
午前中の大半を待ち続け、運営部長たちは次第に苛立ちを募らせていた。
泉は不機嫌そうに言った。「安部玲奈のマネージャーの電話番号を教えて。」
アシスタントが何かを言いかけたその時、入り口から一行が現れた。
「安部さん……社長もいらっしゃったのですね?」
スタッフがすぐに駆け寄る。
先頭に立っていたのは、安部玲奈と拓だった。
安部玲奈は明るい黄色のロングドレスを着ており、拓の腕を親しげに抱いていた。
一方の拓は、ピシッとしたスーツ姿。今朝、泉がベッドの端に用意しておいたあのスーツだ。
その親密な様子を見て、周囲のスタッフたちは目を見合わせ、何かを察した。
以前から社長の初恋相手が安部玲奈だという噂があったが、それが事実であることを確認したのだ。
なんてお似合いなんだろう。
泉の心には鈍い痛みが走り、拳をぎゅっと握りしめた。それでも平然を装い、歩み寄った。
「社長、安部さん。いらっしゃったのなら早速始めましょう」
拓は言った。離婚後も君を妹のように思う、と。
しかし泉はわかっていた。本気で愛した相手を、友人として接するなんて無理だと。
彼が安部玲奈と愛し合い、仲睦まじくしている姿を目の当たりにするのは耐えられない。
だから、離婚したら彼から遠く離れるしかないのだ。
安部玲奈は泉を見ると、驚いたように手を取り、嬉しそうに言った。
「泉さん!あなたもいたのね!」
泉は伏し目がちに彼女の手を一瞥し、そっと引き離しながら、軽く頷いた。
安部玲奈は気づかないふりをしながら続けた。
「3年ぶりね。随分よそよそしくなっちゃったわ。大学生だった頃、私のことを“お義姉さん”って呼んでいたのに」
周囲の人々は驚きもしなかった。
朝倉部長が社長の養妹だということは周知の事実であり、安部玲奈が彼女と親しそうなのも当然だ。どうやら社長と安部玲奈の良縁は近いらしい。
泉はずっと分かっていた。彼女が安部に勝てることなどない。